生きることの肯定
先に述べたように、自分の所有物を失うかもしれないという恐れは、持っているものに基づく安心感の避けがたい結果である。
財産に執着しないこと、それを失うことを恐れないことは、可能である。しかし、生命そのものを失う恐れはどうだろう?
これは老人や病人だけの恐れだろうか。それともすべての人が死ぬことを恐れているのだろうか。死ぬことの恐れは、老齢や病気によって生命の限界に近づくにつれて、より強く意識的になるばかりなのだろうか。
おそらく最も意味深いデータは、人間の肉体の保存を目ざす多くの儀礼や信仰に現れた、不滅への深く刻み込まれた欲求であろう。一方現代において、とくにアメリカにおいて見られる、死体の<美容>による死の否定も同じように、ただ死を偽装することによって死ぬことの恐れを抑圧していることの現れである。
死ぬことの恐れを真に克服するには、仏陀によって、イエスによって、ストア派の哲学者によって、マイスター・エックハルトによって教えられた、ただひとつの方法しかない。それは、生命に執着しないこと、生命を所有として経験しないこと、である。
確かに、死ぬ前に起こるかもしれない苦しみや痛みの恐れはありうるが、この恐れは死ぬことの恐れとは違っている。死ぬことの恐れはこのように非合理的に見えるかもしれないが、生命が所有と経験される場合には、そうではない。
その場合の恐れは死ぬことの恐れではなく、持っているものを失う恐れである。それは肉体、自我、所有物、同一性を失う恐れであり、同一性を持たず<失われた>者の深淵に直面する恐れである。
持つ様式に生きているかぎり、それだけ私たちは死ぬことを恐れなければならない。いかなる合理的な説明も、この恐れを除いてはくれないだろう。
死ぬことの恐れをなくすことは、死の準備として始まってはならないのであって、持つ様式を減少し、在る様式を増大するための絶えざる努力として始まらなければならない。スピノザが言うように、賢明な人は生について考え、死については考えない。いかに死ぬべきかの教えは、実際いかに生きるべきかの教えと同じである。
あらゆる形の所有への渇望、とくに自我の束縛を捨てれば捨てるほど、死ぬことの恐れは強さを減じる。失うものは何もないからである。
(私はこの論議を死ぬことの恐れそのものに限定して、私たちの死が私たちを愛する人々に及ぼすであろう苦しみを想像する苦痛という、解決しがたい問題の論議には入らない)
⇨ エーリッヒ・フロム「生きるということ」紀伊国屋書店 より