強迫的「DNA決定」信仰
講座・差別の社会学「差別の社会理論」弘文堂ー米本昌平『科学の言説と差別』2、ナチス社会=人間の国有化 より
アメリカは実に不思議な社会で、遺伝や生物学の問題設定の延長線上に、人間行動とりわけ知能の問題が説明可能であるとする、広い意味の哲学的衝動と、そのような主張は人種差別を正当化するものだとする鋭敏な政治的感覚が常に併存する。
欧州では、このような研究動機はほとんど見当たらない。
90年代に入って、人間の全DNAを読んでしまおうとする、ヒトゲノム計画が本格的に稼働しだした。もし巨大な研究が順調に進んで、人間のDNAが解読されていけば、当然、プライバシー保護が問題になってくる。
通俗的解釈では、「DNAは生命の設計図」だと思われている。このためヒトのDNA解釈が進めば、個々人の人間性の多くが暴露されてしまうのではないかと心配する向きが少なくない。
しかし、いま見えてきているものといえば、それは遺伝決定論的人間観からはあまりに離れた、茫漠とした巨大な情報の海といってよい。研究者のDNAに対する実感はこのようなものであるにかかかわらず、とくに最近のアメリカの一般メディアではDNAが突出し、DNA一元論的な人間解釈が異様に流行しているといわれる。
それは危険というよりは、もはやアメリカ的カルチャーとして分析の対象にすべきものであろう。
ヒトゲノム計画では、まずは病因遺伝子の解読から重点的に進められているから、当面この研究が内包するところの社会的意味は、将来の発病の危険性が詳しく書き込まれた「未来のカルテ」に近いものが出現することに対応しておくべきだ、ということになる。
すでにいくつかの遺伝病では、発病するはるか以前にDNA診断によってその病気になるか否かが予言できるようになっている。これは自己実現的予言といってよい。
こうなると、診断結果がただちに社会的差別を引き出してしまうことも想定しておかなくてはならない。すでにこのような技術水準の社会になってしまっている現在にあっては、これへの対応策は、徹底して正確な知識を一般に伝えるという正攻法以外は、選択肢はないようにみえるのである。