素晴らしき新世界
エーリッヒ・フロム「愛について」紀伊國屋書店ー第3章『愛と現代西洋社会におけるその崩壊』より
現代人は、オルダス・ハックスリーが「素晴らしき新世界」で描いているような人間像に近い。うまい物をたっぷり食べ、きれいな服を着て、性的にも満ち足りているが、自分というものがなく、他人ともきわめて表面的な触れ合いしかなく、ハックスリーが簡潔にまとめているようなスローガンに導かれて生きている。
「個人が感情を持つと社会が揺らぐ」「今日の楽しみを明日に延ばすな」、あるいは最高のスローガン、「昨今は誰もが幸福だ」。
今日の人間の幸福は「楽しい」ということだ。楽しいとは、何でも「手に入れ」、消費することだ。商品、映像、料理、酒、タバコ、人間、講義、本、映画などを、人々はかたっぱしから呑み込み、消費する。
世界は、私たちの消費欲を満たすための一つの大きな物体だ。大きなリンゴ、大きな酒瓶、大きな乳房なのだ。私たちはその乳房にしゃぶりつき、限りない期待を抱き、希望を失わず、それでいて永遠に失望している。
今や私たちの性格は、交換と消費に適応している。物質的なものだけでなく精神的なものまでもが、交換と消費の対象となっている。
必然的に、愛をめぐる状況も、現代人のそうした社会的性格に呼応している。ロボットは「商品化された人格」を交換し、公平な売買を望む。愛の(特にこのような構造を持つ結婚の)もっとも重要なあらわれの一つが「チーム」という観念である。幸福な結婚に関する記事を読むと、かならず、結婚の理想は円滑に機能するチームだと書いてある。
こうした発想は、滞りなく役目を果たす労働者という考えとたいしてちがわない。
そうした労働者は「適度に独立して」おり、協力的で、寛大だが、同時に野心にみち、積極的であるべきとされる。
同じように、結婚カウンセラーは言う。夫は妻を「理解」し、協力すべきだ。新しいドレスや料理をほめなくてはいけない。いっぽう妻の方は、夫が疲れて不機嫌で帰宅したときには優しくいたわり、夫が仕事上のトラブルを打ち明けるときには心を込めて聞き、妻の誕生日を忘れても怒ったりせず、理解しようと努めるべきである、と。
こうした関係を続けていると、二人の間がぎくしゃくすることはないが、結局のところ、二人は生涯他人のままであり、けっして「中心と中心の関係」にはならず、相手の気分を壊さないように努め、お世辞を言い合うだけの関係にとどまる。
愛と結婚に関するこうした考え方では、堪えがたい孤独感からの避難所を見つけることにいちばんの力点が置かれている。私たちは「愛」のなかに、ついに孤独からの避難所を見つけた、というわけだ。人は世界に対して、二人からなる同盟を結成する。この二倍になった利己主義が、愛や親愛の情だと誤解されている。