所有したい感覚
エーリッヒ・フロム「生きるということ」紀伊国屋書店より
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車を持っている人々にとっては、車は死活にかかわる必需品のように思われる。しかしながら、車への愛情は深く長続きするものではなく、束の間の情事のように見える。
持ち主が自動車を財産として所有しながら、その自動車にはかない関心しか持たないという、一見はなはだしい矛盾の謎を解くためには、幾つかの要因を考慮しなければならない。第一に、持ち主と車との関係に含まれる人格感喪失の要素がある。
車はその持ち主の気に入っている具体的な物体ではなく、地位の象徴であり、力の延長であり、自我の構築者である。車を取得することによって、持ち主は実際に新しい自我の断片を取得したのである。
第二の要因は、例えば六年ごとではなく、二年ごとに新しい車を買うことによって買い手の得る取得の興奮が強まるということである。新しい車を自分のものにするすることは、処女をわがものとするようなものである。
それは支配の感覚を強化し、それが頻繁になればなるほど、興奮は強くなる。第三の要因は、頻繁に車を買うことは、<交換によって利益を得る>頻繁な機会を意味する。第四の要因は非常に重要なものである。すなわち古い刺激がすぐに単調となり枯渇してしまうので、新しい刺激を経験したいという要求である。
所有者的感覚はほかの関係、たとえば医者、歯医者、弁護士、社長、労働者との関係においても、目立っている。人々が「私の医者」「私の歯医者」「私の労働者」などと言うのが、その現れである。しかし、他の人間を財産視する態度のほかにも、人々は無数の物や、時には感情でさえ、財産として経験する。
たとえば、健康と病気を例にあげてみよう。自分の健康を論じる人々は、所有者的感覚で論じるのであって、彼らが言及するのは彼らの病気であり、彼らの手術であり、彼らの治療法であり、食事療法であり、薬である。彼らは明らかに健康と病気は財産であると考えている。財産としての不健康に対する彼らの関係は、たとえば持ち株が酷い下げ相場で、本来の価値を失いつつある、株主のそれに似ている。
観念や信条も財産になりうるし、習慣でさえ同様である。たとえば、毎朝同じ時間に同一の朝食を取る人はだれでも、その日課が少しでも変われば落ち着かない気分になりかねないのは、習慣が財産となって、それを失うことは安心感を損なうからである。
持つ存在様式を普遍的なものとして描写したのは、多くの読者にはあまりにも否定的で一面的のように思われるかもしれない。実はそのとおりなのである。私は現状をできるだけはっきりと描写するために、この社会的に普及した態度をまず描いたのである。