嗜癖システムと「責任」
A・W・シェフ「嗜癖する社会」誠信書房 より
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私たちはよくコントロールと責任を混同します。人間関係において「責任を持つ」という時、それが実は、そこでの決定をすべてコントロールすることを意味することがあります。
リビング・プロセス・システム(*持続可能なシステム)では、責任とは反応する能力のことです。これに対して嗜癖システムで責任というと、そこには、責務と非難の意味が含まれます。責任のある人は「負担を負い」、すべてをコントロールしなければならないというのが一般的な考えです。
そのため彼らは責務を担い、計画通りにいかないことがあれば非難されます。責任というものを、このように考えれば、それが重荷となるのも無理はありません。
私たちはまた、コントロールとパワーを混同しています。「女性の現実」の中で私は、「白人男性システム」におけるパワーの概念とは、何かを圧倒するパワーであり、「新たな女性システム」におけるパワーは個人的なもので、何ものにもそのパワーが及ぶことはないと述べました。古い諺を借りれば、個人のパワーは他人の鼻先までで終わるのです。


ある友人が私の家に二週間ほど滞在した時のこと、私はこの幻想を痛感しました。彼女はその時、きわめて嗜癖的に振舞ったのですが、これに反応した私は、コントロール幻想から遠く離れて安全であると思い込んでいたのに、たちまち逆戻りしてしまいました。
私は、自分の家が崩れ落ちてしまうように感じ、別の友人に言いました。「まるで、熱くなったストーブの中に座ってふたがポンポン飛び跳ねているポットに囲まれているようだわ。私はポットのふたが跳ばないように必死になっているの」。
コントロール幻想は、単なる幻想にすぎません。誰も何もコントロールすることなどできないからです。