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「空気を読む」理由

ユング「タイプ論」みすず書房/10章-タイプの一般的な説明<外向型・感情>より

外向的な構えにおける感情は客観的な既成事実に従って自らを方向づける、すなわち客体が感情のあり方を決める上で欠くことのできない要因になっている。感情は客観的価値と一致しているのである。つねに感情を主観的な事柄としか思わない人には外向的感情型の本質はなかなか理解されない、というのは外向的感情は主観的要因からできるだけ解放されており、そのために客体の影響に完全に従っているからである。


たとえ外見的には個々の客体のもろもろの性質とは無関係であることがはっきりしている場合でも、やはり伝統的価値やその種の普遍妥当の価値に囚われているのである。たとえば私が「美しい」とか「よい」といった述語を用いなければと感じる場合、それは私が主観的な感情からその客体を「美しい」とか「よい」と思うからではなく、「美しい」とか「よい」と言う方がその場にふさわしいからなのであり、しかもこのその場にふさわしいとは、反対の判断を下すと皆の感情の場を何らかの形で乱すことになるという意味である


このようにその場にふさわしい感情判断をするといっても、それはけっして偽ったり嘘をついているのではなく、一種の順応行為なのである。こうしてたとえばある絵画を「美しい」と言うときも、それはサロンに掛けられている有名な画家のサインの入った絵画は一般に「美しい」はずであるからとか、「嫌い」という述語を述べると幸せな気分になっている持ち主の家族の感情を損なうかもしれないとか、訪問者の側に心地よい雰囲気をかもし出そうとする意図があり、そのために是非ともあらゆることを心地よいと感じなければならないから、といった理由によるものである。


こうした感情は客観的な決定因子を基準にして方向づけられている。これはそれ自体としては正真正銘の感情であり、目に見える感情機能をすべて表している。ちょうど外向的思考が主観の影響を可能な限り排除するように、外向的感情も一定の分化過程を経てあらゆる主観的な不随物を取り除かなければならない。この感情の働きによってなされる評価は客観的評価にそのまま合致しているか、少なくとも何らかの伝統的普遍的な既存の価値基準に合致している


いったいどうしてこれまでに大勢の人々が劇場や演奏会や教会に行き、しかもいかにも杓子定規にそれらを受け容れようとする気持ちをもって行くのかというと、それは大部分この種の感情によるものである。流行や、これよりはるかに価値のある、社会的・人道的・その他の・文化事業が積極的に幅広く支持されるのも、このせいである。


こうした事柄においては外向的感情が創造的要因であることは明らかである。この感情なくしては、たとえば気持ちのよいなごやかな交際など考えられない。この意味において外向的感情は外向的思考と同様に合理的に働く有益な力である。


ところがこの有益な作用も、客体が過度の影響力を獲得すると、そのとたんに失われてしまう。というのはこうした場合過度に外向的になった感情が人格を客体の中へあまりにも極端に引きずり込む、すなわち客体がその人物を同化し、そのため感情の主要な魅力をなす個性が消えうせてしまうからである


こうした感情は隠された意図をつい漏らしてしまったり、いずれにせよそうした疑いを公正な観察者に抱かせてしまう。それはもはや純粋な感情が常に備えている、あの気持ちのよいすがすがしい印象を与えず、たとえ利己的な意図がまったく意識されていない場合でも、そこには気取り芝居気が漂っている。しかしそれはもはや心に訴えかけるものではなく、せいぜい五感ないし、より悪い場合は悟性に訴えるものでしかない。


しかしそれだけのことでそれ以上の効果をもたらすものではない。感情が不毛化してしまうのである。この過程がさらに進むと、感情は分裂して異様なほど矛盾に満ちたものとなってしまう。すなわち感情が客体の一つ一つに感情的な判断を下して自分のものにし、互いに内的に矛盾する様々な関係を結んでしまうのである。


ただしごくわずかでも主体が存在しているかぎり、このようなことは絶対に不可能であり、そのため真に人間的な立場は残る隈なく抑圧されてしまう。主体が個々の感情過程に吸収されてしまい、その結果あたかもそこにあるのはもはや感情の過程だけで、感情の主体は存在しないかのような印象を観察者に与えるのである。感情はこうした状態になるとそもそもそれが持っていた人間的な温かみを完全に失い、気取り気まぐれ信頼できない・といった印象を、よりひどい場合にはヒステリーという印象を与えてしまう。

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佐藤蓼丸

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