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強者への崇拝と弱者への嫌悪



「論座」国民の自画像としての安倍/菅政権(上・下)白井聡 京都精華大学人文学部専任講師(葉梨愛ツイッター的ブログ経由)より


根本的な問題は「政治システム」にあるのではなく、戦後75年を経た日本人の精神の危機的状況にあるのではないか、ということだ。これほどに腐敗し、政治の常識を破壊し堕落させ、法治主義を崩壊させ、三権分立を踏みにじり、嘘と欺瞞の上に開き直る権力――これに対して、積極的にせよ消極的にせよ支持を与えてきた国民精神には、巨大な闇がある。


その闇の内容について、筆者は『国体論』において、戦前天皇制国家から引き継がれた臣民メンタリティに内在する奴隷根性を指摘した。それは、近代天皇制が生んでしまった、自由への希求に対する根源的な否定の上にあるような主体性である。


この主体はつねに主人を求めるが、それは責任ある決断に基づく服従ではないから、主人が没落すれば容易に見捨てる。さらには、こうした精神態度を拒否する自由人を、その存在そのものが奴隷に対する告発になるので、嫌悪し抑圧する。この論点を敷衍して言えば、安倍晋三のキャラクターは、奴隷が甘え依存する格好の対象として現れたのではないか


安倍は、ムッソリーニやヒトラーのようにカリスマ的指導者として熱狂的支持を取りつけたわけではなかった。同時代のドナルド・トランプと比較しても、トランプが大統領再選に失敗した後も熱狂的支持者を失っていないのに対し、いま失墜の始まった安倍を徹底擁護する者が全然見当たらないのは対照的である。昨年8月の辞意表明会見の後に跳ね上がった支持率、それを支えたはずの人々の思いはどこかへ消えてしまった。


いま明らかになってきつつあるのは、安倍への長年の支持は真の情熱をそもそも欠いたものにすぎなかった、という事実なのだろう。「落ちた偶像」への信仰を失わず、擁護する行為は、真の情熱精神の強靭さ を必要とする。してみれば、安倍を支持するとは、徹底的に怠惰な行為であったことがわかる。それは知的に怠惰であっただけでなく、知性の基礎となる精神の構えにおける怠惰なのだ。


怠惰だというのは、安倍が広く支持されている時代には、「安倍晋三=総理大臣=国民の代表:偉大な政治家=偉大な総理大臣=偉大な国民の代表」という定式が成り立ち、それにより「安倍を支持する一国民としての私=偉大な私」という定式が自動的に得られるからである。「私の自意識」を嵩上げするお手軽なドーピング手段として安倍支持は機能した


この心理は、「安倍信者」などと揶揄されるネトウヨ層において最も明白に見て取れるが、それは「極端すぎる例外的な現象」などではさらさらない。大メディアがやってきたアベノミクスに対する足並みを揃えての翼賛や「外交の安倍」などといったフレーズの連呼は、こうしたドーピングを多少の水で割ったようなものであって、ネトウヨの言説と本質的には何にも異なるところがない


こうしたメカニズムの作用を支えていたのは、つまるところ安倍の総理大臣という地位、それが帯びる権威と権力だった。それが失われれば、メカニズムは止まる。安倍が最高権力者から犯罪者へと転落する道行きにあるならば、彼には何の価値もないことになる。ゆえに、安倍晋三という存在は、依存の対象として消費された挙句に、いまや役立たずとして放り捨てられつつある。支持者にとって大事であったのは、「偉大な政治家としての安倍晋三」ではなく、「安倍を支持することによって確保することのできる支持者自身の心理上の利益」であった。

失われた強い自我



「論座」国民の自画像としての安倍/菅政権(上・下)白井聡 京都精華大学人文学部専任講師(葉梨愛ツイッター的ブログ経由)より


この間はっきりしてきたのは、安倍=菅体制に対する支持率が高いのは、若年層であるという事実だった。若年であればあるほど支持が強いと言っても差し支えないほどだ。当然この世代は、「平和と繁栄としての戦後」というものを経験していないし、現代に対するそのような肯定的イメージも持っていない。


にもかかわらず、「平和と繁栄」を知らない世代こそが、「体制」を支持することによってこのイメージに最も強く縋りついているようにも見える。つまり、覚醒の困難は、若年層において濃縮されたかたちで現れている。


この現象は「若年層の保守化」とか「若年層の野党嫌い」などと呼ばれ、昨今盛んに分析が加えられている。私見を述べるならば、この現象の最大の要因は「社会からの逃走」であり、「社会の蒸発」である。➡「社会からの逃走」「社会の蒸発」とは「個性の蒸発」と「集団的ナルシシズム」(蓼丸)


自由からの逃走

エーリヒ・フロムの『自由からの逃走』によれば、自由と理性が拡大する時代であるはずの近代において、権威主義への傾倒が生ずる理由は、近代的自由の裏面には「寄る辺のなさ」「孤独」があるからだという。すなわち、前近代的な拘束からの解放こそが近代的自由の核心であるわけだが、それはそのまま、社会のなかに個人が裸で投げ出され、不安にさいなまれることを意味する、という。


拘束を含みつつも各人に確実な居場所を与える前近代的な人間関係をフロムは「第一次的絆」と呼んだが、これが失われることによる不安は、経済不況や産業構造の転換、敗戦等の社会的混乱の際に極大化し、それがある水準を超えてしまうと、人々は近代的な自由を自ら進んで投げ捨てて権威に服従することに偽の安心を求めるようになるのだ、と。


フロムの議論は、こうした「自由からの逃走」が、宗教改革(苛烈な神への服従を説いたプロテスタンティズムの出現)およびナチズムを典型として、近代の歴史のなかで形を変えながら反復されてきたことを示し、今後も反復されるだろうことを示唆している。われわれが目撃しているのは、おそらくその最新版である。


いずれにせよ、劣化する一方の社会の存在認識することは苦痛でしかなくなる。その苦痛が一定の水準を超えたとき、「社会」の存在は否認されるだろう。「社会などというものは存在しない」というマーガレット・サッチャーのテーゼは、人々の認識上で実現され、それは究極の社会的無関心をもたらす。なぜなら、存在しないものに対して人は関心を持つことはできないからだ。➡ 「存在しないもの」を認識するためには「創造的な想像力」「肯定的な想像力」「現実的な想像力」「未来に対する想像力」が必要。(蓼丸)


そこに現れるのは、「自由からの逃走」の現代版としての「社会からの逃走」である。現代の若年世代においてこの傾向が濃縮された結果が、この世代の「体制」に対する高い支持率にほかなるまい。

ダニングクルーガー効果


TED-Ed:Why incompetent people think they're amazing - David Dunning~より


心理学の研究は、私たちが自分を正確に評価するのが、あまり上手くないことを示していて、実際には自分の能力を、過大評価していることが良くあります。専門家はこの現象を「ダニング=クルーガー効果」と呼んでいます。


私たちが、他の人より優れていると思う度合いは、数学の法則と矛盾しています。二つの会社のソフトウェアエンジニアに自分の能力を、評価してもらったところ、一方の会社では32%、他方の会社では42%の人が、自分は上位5%に入ると答えました


また、別の研究によると、アメリカのドライバーの88%が、自分の運転技術は平均より上だと考えています。これは、まれにしか見られない話ではありません。


人は、自分を他の人よりも、高く評価する傾向があって、それが健康からリーダーシップ倫理を含む、様々な面で見られます。中でも興味深いのは、能力の低い人ほど、自分の能力を大きく評価しがちだ、ということです。


たとえば、論理的推論、文法、お金の知識、数学、感情的知性、臨床検査の実施、チェスといった領域で、明確に劣っている人が、専門家並みの自己評価をする、傾向があります。


このような妄想を抱きやすいのは、どういう人なのでしょう?残念ながら、みんなです。誰でも、自分で認識していない無能な面を、持っているものですから。


でも、なぜなのでしょう。心理学者のダニングとクルーガーが、1999年に初めてこの効果について書いたとき、何かの領域で知識やスキルを欠く人は、二重の呪いを受けることを指摘しています。


第一に彼らは、ミスを犯し、まずい判断をします。第二に、その同じ知識の欠落のため、自分の間違いを、捉え損ねることになります。言い換えると、下手な人というのは、自分がいかに下手かを認識するのに、必要な力を欠いているのです。


たとえば、研究者がある大学の、ディベート大会の参加者を調べたところ、予選で下位の25%のチームは、5試合で4試合近くを落としていましたが、彼ら自身は、6割方勝っていると思っていたのです。


ディベートのルールを、しっかり把握していなければ、自分の議論がいつ、どれほど頻繁に破綻しているかも、認識できません。


ダニング=クルーガー効果は、エゴのために、自分の弱みに盲目になる、ということではありません。人は、自分の欠点を見付ければ、普通それを認めるものです。ある研究で、はじめ論理パズルの成績が悪かった学生は、論理のミニ講座を受けた後、以前の自分の能力が、酷いものだったことを進んで認めています

受け身で物事に関わらない人

■タイプ9(調停者・内向的感覚型)

ドン・リチャード・リソ「性格のタイプ」春秋社

(神経症の)タイプ9は、依存性人格障害と受動攻撃性人格障害にそれぞれ部分的に相当する。


通常のタイプ9の感情的な安定さは、その信念と理想化の精神世界を維持することにかかっているため、この段階での彼らは変化を恐れる。彼らは自分たちを混乱させるようなことはなに一つしたくない。したがって、可能なかぎり現状を維持したがる。深く本質的な方法で努力するよりも、彼らは、自分の介入や反応なしに、すべてがそれ自体の力でうまくいくことを願う


皮肉なことに、通常のタイプ9はなにもしないためには、なにかを実際にしなければならない。環境内に自分の平和にとって脅威と見なすものがあれば、いかなるものとも彼らは関わりを避けなければならない。彼らの健全な気取りのなさは、無反省な首尾一貫性のなさ、周囲の世界の多くに対する意識性の欠如になってしまっている。


彼らは現実と友好的な関係を保ち続けているが、奴隷のようにそうしているのではない。機能の鈍い満足感知性の鈍さ感情面の怠惰が始まる。「いいさ、心配する必要はないよ」と、彼らは受け身になる。この段階でのタイプ9には、自分とその行為の間にはっきりと距離、すなわち、何事も彼らに届かず、彼らを混乱させることのない無意識性を保つので、独特のあいまいさがある。彼らはきわめてこせこせしないが、環境――あるいはその中の人たちと、真に接することはない。


そして、より個人的な反応を要求されて当然な事柄に対してさえ、不適切なまでに事務的になる。彼らは「どちらでも結構です」という無関心な態度をすっと取り、そのため、なにかに心をわくわくさせたり、参加しようとしたりしない。彼らは同じように満足し、同じようにどっちつかずのまま、一つのことから他のことに移って行く


要するに、通常のタイプ9は、温厚で誤りに対しては「身を引き」、典型的な無精気質をそのまま人にした人物である。「この上ない幸福」であることは、新しい意味を帯びる。彼らは、なににせよ、あまり深くは感じないようにしているため、ユングの指摘するように、彼らが高いと言っても高くはなく、低いと言っても低くはない。すべてが安定に保たれる


通常のタイプ9は、自分自身をその感情から分離してしまっているため、その感情が弱まることに気づきさえしない。この段階では、通常のタイプ9は非常にあいまいで漠然となり始めるため、他の人たちは、まるで彼らがそこにいないかのように、なにかが彼らから欠け落ちていることに気づかないわけにはいかない


通常のタイプ9にとっては、なにも特別に重要でもなければ、緊急でもないようにみえる。彼らは絶対に必要な場合以外は、特定の精神的エネルギーをなにかに注ぎ込もうとはしない


詳細は彼らの関心を引かず、彼らは物事を忘れ、仕事に集中しても、三分もたたないうちに彼らの心はどこかに漂い出す。彼らの会話は取りとめがなかったり、急に話題を変えて話されていることに関心のないことを示す。通常のタイプ9は人生の夢想家であり、誰であれなにであれ、理想化した心の中の像を見つめて楽しむ


しかし、不幸なことに彼らの注意は、内向きにその瞑想の上にあるため、彼らは現実世界に注意を払わなくなる。もし知的で十分な教育を受けていれば、彼らは、哲学、神学、芸術や科学について語ることを楽しむかもしれない。しかし、彼らの思考のあまりにも多くが、率直にいって、漠然とした取りとめもない空想以上のものではなく、その目的は、真剣な参画や努力を要することに積極的に関わることよりも、むしろ、時間をつぶすことである


彼らの健全な飾り気のなさは、忘却へ、永遠の放心へと堕落してしまっている。まるで彼らは常に取りとめもない夢想にふけり、時間を見ずに時計を見つめている人のように世界を見ているかのようである。ほとんどの人がテレビのコマーシャルを無視する訓練を自分でしてきたのと同じ方法で、通常のタイプ9は現実の多くを体験する。すなわち、不注意が習慣になるまで、見たくないもの、聞きたくないものすべてから自分自身を分離する


彼らは夢遊病者に似ていて、物理的には存在していても、周囲の出来事には気づかない。彼らのエネルギーはその平和を守るために使われ、彼らは自分を興奮させたり混乱させたりするものはすべて無視する。肉体的、精神的な快適さは重要な価値であり、通常のタイプ9は、刺戟を受けすぎたり、疲れすぎてはいけないと考えて、精神的にも肉体的にも自分に厳しくしようとはしない。彼らは何物も求めずに時を過ごし、家の周りをぶらつき、使い走りをし、小物を集め、または、ぼんやりとテレビを見る


この段階では、彼らは半意識性の状態で生きることに慣れていて、精神安定剤をあまりにも長く服用したために服用しない状態を忘れた人のようである。

これで、いい(わけない)のだ。

■タイプ9(調停者・内向的感覚型)

ドン・リチャード・リソ「性格のタイプ」春秋社

通常のタイプ9は、自分の経験から分離しているので、人がふつうにやるような原因と結果の関連づけを考えない 。彼らにとって、原因と結果は関係づけがあるようには思えない。彼らは、自分たちの行動の結果や、自分の怠慢もまたその結果をもつという事実についても、考えようとしない。彼らは何事についても考え抜くことをせず、すべては一番よい方向にいくであろう、と無条件に感じる


自己認識の欠如が、こうした彼らの態度の根本にある。タイプ9は、健全でないかぎり、自分を含めて何事にも焦点を合わせることをまったく身につけていないため、怠慢が生じる。まったくその反対に、自分に焦点を合わせるどころではない。すでにみてきたように、彼らの定位の全体が、挙げて自己を意識しないで、相手を受け入れることである。


彼らは、自分自身を定立した個人として意識することができないため、現実すべてを漠然と理解することに慣れている。実際的な問題、特に、他の人たちとの間の問題が起きると、彼らは現実と向き合うことができないため、事態をどんどん悪くさせる。通常のタイプ9は、解決策の一部よりもむしろ問題自体の一部に次第になる。彼らはまた、人々を二つのグループに分け、人間関係を区分化することによって、対人関係の葛藤から分離する


二つのグループとは、彼らが一体化した人々と一体化していない人々である。二つ目のグループは、それらの人々は基本的に非現実のものであり、ほとんど抽象観念にすぎないため、通常のタイプ9にとりほとんど意味をもたない。通常のタイプ9は、このグループの人々に対し、驚くほど無感覚無関心になれる。タイプ9にとっては、彼らは存在していないといってもよい。


また通常のタイプ9は、自分たちが一体化した第一グループの人たちとの人間関係にすらも、あまり力を注がない。タイプ9はこれらの人々を理想化し、それから、その注意を現実の人々からその理想化した姿へと移す。その結果、他の人たちは、自分たち自身への、また、自分たちの現実の要求に対する注意が欠けていることに気づくことになる。皮肉なことに、他の人たちは、また、通常のタイプ9に対する興味も失い始める


なぜなら、その人間関係においては、実際に進行している関係もエネルギーもほとんどないからである。タイプ9が漂い出るにつれ、他の人たちも漂い去る


なにもしないことがうまくいかず、問題に直面しなければならなくなると、この段階での通常のタイプ9は、問題の重要性を最小限に押えようとする。彼らは、自分の受動性がもたらした結果の重大性を過小評価し、自分が対処することを拒んだ問題を誰かが正すときのむずかしさを過小評価する。実際、彼らは、そもそもなにかをすることの必要性を過小評価する。


危機の際には、なにかをしなければならないと他の誰もが理解するが、通常のタイプ9は、なにが起こっても耐える能力に誇りをもつ。彼らは、問題にそっぽを向くことでやり過ごすことができることを知っている


したがって、努力するよりもむしろ彼らは諦観的になり、物事を変えたくても何事もできず、どんなことがあっても、問題がどんなものであろうとも、結局大した問題ではないのだ、と感じる。「どちらにしろ、あまり問題ではない。」彼らの健全な受容性あきらめへ、熟成するに任せる態度は放棄へと堕落してしまっている。

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内村鑑三の言葉
日本に欠乏しているものは何か。それは富ではない。知識ではない。才知ある計略でもない。愛国心でもない。道徳でもないだろう。欠けているのは「生きた確信」である。真理そのものを愛する「情熱」である。この確信、この情熱からくる無限の歓喜と満足である。
武者小路実篤の言葉
何のためにあなたたちは、生きているのですか。国のためですか、家のためですか。親のためですか、夫のためですか、子のためですか。自己のためですか、愛するもののためですか。愛するものを、持っておいでですか。
プロフィール

佐藤蓼丸

Author:佐藤蓼丸
私たちは体においてよりも、心において不健康である。⇨ ラ・ロシュフコー

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