閉鎖系モデルへの移行
Toshikazu Sakurai「千年のうち」余命一年から千年を考える~より
受取るエネルギーは、もともと、無償であった。(無償の太陽光線、無償の土地、水、森)使用できるエネルギー、資源は限りがある。閉鎖空間である。 そのためムダな仕事はしてはならない。
閉鎖空間の限界を越えた仕事は禁止されねばならない。ムダな仕事は貧困に結びつく。 その一方、資源を投入しない効率化(知恵による合理化)は極力行なわねばならない。
同時に、もともと無償の資源を利用するのだから、利用しないでいても、被害者はいない。利益が減り、扶養可能人数が減るぐらいである。(安全な経営が可能である)
人間の投入するエネルギーは、時間の制約があるが、農作物の要求する特定の時間以外は意味がない。 そのため、人間の時間は、繁期と、閑期のバラツキが発生する。(季節変動)
この余剰時間が、貧困によるマイナス圧力をうけて、状況の打開・貧困の解消をめざして効率の悪い仕事に投入されると、生活の一切の余裕はなくなる。
農業を自動化することは比較的容易です。この場合、単純加工業となり、従事する人口は際限なく減少しても、問題がなくなる。
先進国ほど農業従事労働者か少なく、生産性が高く、作物が余剰になってしまうというパラドックスがあります。しかし、かといって、すべての人間は農業受益者なのだから、関係がないどころか、農業にいかにつながっているかが、農村都市含めた全人間の死活的条件なのです。そのため、エネルギーと資源があれば、複数の系統からの収入が可能となる。
農地→農産物
太陽発電パネル→電力の販売
余剰時間労働→各種手工業
農産物加工品→高付加価値加工食品
しかも、機械化する設備を持つことで、労働成果は時間に比例したものではなく、乗数的に拡大可能である。(収入ソースが複数で、拡大効果、効率化の余地が大きい)
全体に考えれば、農村の活動は、「生産」であり、乗数効果のある「経営」となる。時間と比例した都市の本質的に単純肉体労働(事務など座業であっても肉体労働)とは性格が違う。
複数の収入・生活手段の確保により、長期的により安全な生活環境が維持可能。(冗長性が高く、ひとつの手段が閉ざされても影響が少なくできる)複数の自動的収入があれば、失業は怖くない。むしろ安易な仕事するほうが危険かもしれない。
