これで、いい(わけない)のだ。
■タイプ9(調停者・内向的感覚型)
ドン・リチャード・リソ「性格のタイプ」春秋社
通常のタイプ9は、自分の経験から分離しているので、人がふつうにやるような原因と結果の関連づけを考えない 。彼らにとって、原因と結果は関係づけがあるようには思えない。彼らは、自分たちの行動の結果や、自分の怠慢もまたその結果をもつという事実についても、考えようとしない。彼らは何事についても考え抜くことをせず、すべては一番よい方向にいくであろう、と無条件に感じる。
自己認識の欠如が、こうした彼らの態度の根本にある。タイプ9は、健全でないかぎり、自分を含めて何事にも焦点を合わせることをまったく身につけていないため、怠慢が生じる。まったくその反対に、自分に焦点を合わせるどころではない。すでにみてきたように、彼らの定位の全体が、挙げて自己を意識しないで、相手を受け入れることである。
彼らは、自分自身を定立した個人として意識することができないため、現実すべてを漠然と理解することに慣れている。実際的な問題、特に、他の人たちとの間の問題が起きると、彼らは現実と向き合うことができないため、事態をどんどん悪くさせる。通常のタイプ9は、解決策の一部よりもむしろ問題自体の一部に次第になる。彼らはまた、人々を二つのグループに分け、人間関係を区分化することによって、対人関係の葛藤から分離する
二つのグループとは、彼らが一体化した人々と一体化していない人々である。二つ目のグループは、それらの人々は基本的に非現実のものであり、ほとんど抽象観念にすぎないため、通常のタイプ9にとりほとんど意味をもたない。通常のタイプ9は、このグループの人々に対し、驚くほど無感覚、無関心になれる。タイプ9にとっては、彼らは存在していないといってもよい。
また通常のタイプ9は、自分たちが一体化した第一グループの人たちとの人間関係にすらも、あまり力を注がない。タイプ9はこれらの人々を理想化し、それから、その注意を現実の人々からその理想化した姿へと移す。その結果、他の人たちは、自分たち自身への、また、自分たちの現実の要求に対する注意が欠けていることに気づくことになる。皮肉なことに、他の人たちは、また、通常のタイプ9に対する興味も失い始める。
なぜなら、その人間関係においては、実際に進行している関係もエネルギーもほとんどないからである。タイプ9が漂い出るにつれ、他の人たちも漂い去る。
なにもしないことがうまくいかず、問題に直面しなければならなくなると、この段階での通常のタイプ9は、問題の重要性を最小限に押えようとする。彼らは、自分の受動性がもたらした結果の重大性を過小評価し、自分が対処することを拒んだ問題を誰かが正すときのむずかしさを過小評価する。実際、彼らは、そもそもなにかをすることの必要性を過小評価する。
危機の際には、なにかをしなければならないと他の誰もが理解するが、通常のタイプ9は、なにが起こっても耐える能力に誇りをもつ。彼らは、問題にそっぽを向くことでやり過ごすことができることを知っている。
したがって、努力するよりもむしろ彼らは諦観的になり、物事を変えたくても何事もできず、どんなことがあっても、問題がどんなものであろうとも、結局大した問題ではないのだ、と感じる。「どちらにしろ、あまり問題ではない。」彼らの健全な受容性はあきらめへ、熟成するに任せる態度は放棄へと堕落してしまっている。