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境界の発生

ケン・ウィルバー「無境界・自己成長のセラピー論」平河出版社より

この本のテーマは、このタイプの自覚、すなわち統一意識ないし至高のアイデンティティが、生きとし生けるものすべての本性であること、ところがわれわれはつぎつぎと世界をせばめ、さまざまな境界を受け入れていき、自らの本性に背を向けてしまうことにある。


「わたしは誰か?」。おそらくこの質問は文明の曙から人類を苦しめてきたものであろう。そして、今日も最大の難問の一つとしてとどまっている。この質問に対して、これまで、聖から俗、複雑なものから単純なもの、科学的なものからロマンティックなもの、政治的なものから個人的なものにいたる、あらゆる範囲の答えが出されてきた。


だが、ここではこの質問に対するこれらの膨大な答えを調べるかわりに、「わたしは誰か?真の自己とは何か?わたしの根源的アイデンティティは何か?」という質問に答えるときに決まって起こる基本的プロセスを見てみよう


誰かが「あなたは誰か?」と尋ね、ある程度詳細な正直かつ道理にかなった答えをしようとするとき、あなたはいったい何をするのだろうか?そのとき、あなたの頭のなかで何が起こっているのだろうか?ある意味であなたは、自らが知るにいたった自分自身を描写している。その説明のなかには、自分のアイデンティティにとって根源的だとあなたが思っている事実の大半が含まれている。良いものもあれば悪いものもある。価値のあるものも価値のないものも、科学的なものも詩的なものも、哲学的なものも宗教的なものも含まれる。


たとえば、「わたしはユニークな人間で、特定の能力を授けられている。やさしい人間だが、ときには狂暴になる。愛にあふれているが、ときには攻撃的になる。父親で弁護士であり、魚釣りとバスケットボールが好きだ」・・・と考えるかもしれない。このように、あなたのさまざまな想念のリストは、果てしなくつづく。だが、アイデンティティを確立する手順の根底には、さらに基本的な一つのプロセスが潜んでいる


きわめて単純なことが「あなたは誰か?」という質問に答えるときに起こっているのだ。自分「自身」を描写したり説明したり、あるいは内側で感じているときに、あなたが知っているかどうかにかかわらず、実際には頭で自分の体験の全領域を横切る線や境界を引いているのである。


その境界の内側にあるものはすべて、「自分」と感じたり、呼んだりしているものである。一方、その境界の外側にあるものは全部、あなたが「非自己」と感じているものである。言い換えると、自分のアイデンティティはすべて、その境界をどこに設けるかにかかっていることになる。


あなたは人間であり、椅子ではない。あなたにそれがわかっているのは、意識的あるいは無意識のうちに、人間と椅子のあいだに境界を設けているからである

自己/非自己の境界

ケン・ウィルバー「無境界・自己成長のセラピー論」平河出版社より

誰もが正当なものとして受け入れるもっともありふれた境界線は、有機体としてのからだ全体を取り囲む皮膚の境界であろう。これは普遍的に受け入れられている自己/非自己の境界線のようである。この皮膚の境界の内側にあるものは、ある意味ですべて「わたし」であり、その境界の外側にあるものはそのすべてが「わたしではない」。


皮膚の境界の外にあるもののなかには「わたしのもの」と呼べるものもあるが、それは「わたし」ではない。たとえば、わたしは「自分の」車、「自分の」仕事、「自分の」家、「自分の」家族というとらえ方、をするが、それらは自分の皮膚の内側にあるものをすべて「わたし」とするような形で直接「わたし」であるわけではない。


つまり、この皮膚の境界はもっとも根源的に受け入れられている自己/非自己の境界の一つなのだ


この皮膚の境界は、あまりにも明白で現実的かつ共通したものであるために、たとえば統一意識のような稀な出来事とか、どうしようもない精神異常を除いて、他の種類の境界はほとんどありえない、と感じるかもしれない。だが、実際にはほかにも大多数の人が引く、きわめて一般的かつ確立された境界線が存在する。皮膚を当然の自己/非自己の境界として認め、受け入れたうえで、大半の人が自分にとってより重要なもう一つの境界を、自らの有機体のなかに設けるのである


有機体のなかの境界線という考えは奇妙な感じがするかもしれない。だが、「あなたは自分がからだだと感じますか?それとも自分がからだをもっていると感じますか?」と問いたとすると、ほとんどの人が車や家やほかの物と同様に、自分はからだをもっていると感じる。こういった状況の下では、からだは「わたし」というより「わたしのもの」である。そして、「わたしのもの」とは定義上、自己/非自己の境界の外側にあるものである。


人は自らの有機体全体の一局面に、より基本的で親密なアイデンティティを感じる。人が自らの真の自己であると感じるこの局面は、心、魂、自我、人格などとして知られている。生物学的にはこの心とからだ、魂と身体、自我と肉体の分裂や大きな溝には、いかなる根拠もない。だが、心理学的には疫病的な作用を及ぼす


そして、この心身の分裂それに付随する二元論は、西洋文明の基本的とらえ方となっている。ここでわたしが人間の行動全体の研究に関して、「サイコ・ロジー」ということばを使わなければならないことにお気づきだろうか。


このことば自体が人間は基本的に心であり、からだではないという偏見を反映している。聖フランシスでさえ、自分のからだを「哀れなロバ」と呼んだ、ほとんどの人が、ロバにでも乗るように自分のからだを乗り回している感覚をもっていることは否定できないであろう。

あなたは何処に境界線を引くか

ケン・ウィルバー「無境界・自己成長のセラピー論」平河出版社より

背が非常に高かった場合、高さと低さのあいだに頭で線を引き、背が「高い」というアイデンティティをもつことになる。「これ」と「あれ」のあいだに境界線を引き、つまり、「自分自身」ということばを吐くときには、自分であるものと自分でないものとのあいだに境界線を引いていることになる。そして、「あなたは誰か?」という質問に答えるときには、単にその線の内側にあるものを描写する


要するに、「あなたは誰か?」とは、「あなたはどこに境界を設けますか?」という意味である


この「わたしは誰か?」という質問に対する答えはすべて、自己と非自己のあいだに境界線を引くこの基本的な手順から生じてくる。全般的な境界線が引かれてしまうと、この質問に対する答えは科学的、神学的、経済的なきわめて複雑なものになる場合もあれば、もっとも単純かつ不明瞭なままにとどまる場合もある。だが、考えうるあらゆる答えは、最初に引く境界線にかかっている


この境界線に関して興味深いのは、それがしばしば移行するということである。引きなおすことができるのだ。ある意味で、自分の魂の地図を作りなおし、その領域のなかにそれまで可能だとも獲得できるとも、あるいは好ましいとも思っていなかったものを入れることができるのだ。


すでに見てきたように、境界線のもっとも革命的な再製図ないし移行は、至高のアイデンティティの体験で起こる。ここでは、自分のアイデンティティの境界が全宇宙まで拡大するからである。境界線がまったくなくなるともいえよう。「一つの調和した全体」と同一化しているときには、もはや外側や内側がなく、境界線を引くことができないからである。


本書を通じてわれわれは、しばしばこの至高のアイデンティティとして知られる無境界の自覚へ立ち返り、探求することになろう。だが、この時点では、魂の境界を定義する、より馴染み深い他のいくつかの方法を調べてみることにする。境界線にはそれを設ける人の数と同じくらいさまざまな種類がある。だが、そのすべてが簡単に確認できる一握りのグループ下に入るのである。

言うことを聞かない体

ケン・ウィルバー「無境界・自己成長のセラピー論」平河出版社より

この心身のあいだの境界線は、誕生時にはまったく存在しなかた奇妙なものである。だが、成長し、自己/非自己の境界を設け、それを強化しはじめると、自分のからだに対して入り混じった感情を抱くようになる。からだは自己の境界の内側に直接入れてしまっていいものだろうか。あるいは、異質な領域ととらえたほうがいいのだろうか。どこに線を引けばいいのか


ところが一方、からだは一生を通じて快楽の源となるものである。エロティックなエクスタシーから、ごちそうの微妙な味や日没の美しさを感じるのは、からだの諸感覚である。ところが、からだには不具の痛み、病による衰弱、ガンの苦しみなどの恐怖がすみついている。


子供にとってからだは、快楽の唯一の源である。だが、同時にからだは両親とのいさかいや苦痛の第一の源でもある。そのうえ、からだはまったく訳のわからない理由で始終両親をビリピリさせたり、悩ませる廃棄物を生産しているように子供には思える


おねしょ、尿、鼻水――なんという騒ぎだろうか..これは全部このからだと関連しているのだ。どこに線を引くかだんだん難しくなってくる。大人になる頃にはほとんどの人が、だいたい哀れなロバに別れを告げている。自己/非自己の境界が固定されたときには、ロバは確実に壁の外におかれている。からだは外の世界同様、ほとんど(完全にそうなることはない)異質な領域になってしまう。


ミニチュア人間


要するに、自分のアイデンティティと感じているものが、自らの有機体全体を直接包括せず、自我と呼ばれる有機体の一つの局面だけ限られてしまうのである。つまり、頭のなかの自己イメージとそれに関連した知的、感情的プロセスにアイデンティティをもつのである。


自らの有機体全体とアイデンティティを正しくもたないために、その有機体のイメージや心象にアイデンティティをもつのだ。こうして自分を「自我」と感じるようになり、からだは自分に従うものにすぎなくなってしまう。ここで自我、自己イメージをアイデンティティとして確立するもう一つの境界線が生まれるのである。

「影」と「自己超越」

ケン・ウィルバー「無境界・自己成長のセラピー論」平河出版社より

もちろん、この自己/非自己の境界線はきわめて柔軟なものである。ということは、自我とか頭のなかにまた別のタイプの境界線が生じてきても驚くにはあたらない。


あとで論議するさまざまな理由で、人は魂の特定の局面を自らのものとして認めることを拒絶するようになる。心理学用語を使うなら、それらを疎外抑圧分断投影するのだ。


自己/非自己の境界を自我的傾向の特定の部分までせばめてしまうのである。このせばめられた自己イメージをわれわれは仮面と呼ぶことになるが、その意味は先に進むにつれだんだん明らかになってくるはずである。


だが、魂の特定の局面だけにアイデンティティをもつようになってくると、残りの部分異質な領域、相容れない恐ろしい非自己と感じるようになる。そして、魂の地図を作りなおし、自分自身の好ましくない局面(これらの好ましくない局面は「影」と呼ばれる)を意識から追い出し、否定しようとする、程度の差こそあれ、「正気を失う」のだ。


ストーの名言


カランの名言

これがもう一つの一般的なタイプの境界線であることは明らかである。この時点で、われわれはこれらの自己地図のうち、どれが「正しいか」、「正確か」、あるいは「真実か」を決めようとしているわけではない


自己/非自己の境界線にはいくつかのおもなタイプがあることを、公平に指摘しているだけである。このように、この問題に関して判断しない形でアプローチしているわけであるから、今日注目を集めているもう一つのタイプの境界線を取り上げてもよいであろう。それは、いわゆるトランスパーソナルな現象に関連した境界である。


「トランスパーソナル」とは、個人のなかで個人を超える何らかのプロセスが起こっているという意味である。このもっとも単純な例はESPである。超心理学者たちはESPには、テレパシー、透視、予知、既知体験などのいくつかの形態があることを認めている。ここでは身体離脱体験、超個的自己や超個的目撃の体験、至高体験なども含まれるであろう。


こういった体験すべてに共通しているのは、自己/非自己の境界が有機体の皮膚の境界を超えて拡大することである

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