自己/非自己の境界
ケン・ウィルバー「無境界・自己成長のセラピー論」平河出版社より
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誰もが正当なものとして受け入れるもっともありふれた境界線は、有機体としてのからだ全体を取り囲む皮膚の境界であろう。これは普遍的に受け入れられている自己/非自己の境界線のようである。この皮膚の境界の内側にあるものは、ある意味ですべて「わたし」であり、その境界の外側にあるものはそのすべてが「わたしではない」。
皮膚の境界の外にあるもののなかには「わたしのもの」と呼べるものもあるが、それは「わたし」ではない。たとえば、わたしは「自分の」車、「自分の」仕事、「自分の」家、「自分の」家族というとらえ方、をするが、それらは自分の皮膚の内側にあるものをすべて「わたし」とするような形で直接「わたし」であるわけではない。
つまり、この皮膚の境界はもっとも根源的に受け入れられている自己/非自己の境界の一つなのだ。
この皮膚の境界は、あまりにも明白で現実的かつ共通したものであるために、たとえば統一意識のような稀な出来事とか、どうしようもない精神異常を除いて、他の種類の境界はほとんどありえない、と感じるかもしれない。だが、実際にはほかにも大多数の人が引く、きわめて一般的かつ確立された境界線が存在する。皮膚を当然の自己/非自己の境界として認め、受け入れたうえで、大半の人が自分にとってより重要なもう一つの境界を、自らの有機体のなかに設けるのである。
有機体のなかの境界線という考えは奇妙な感じがするかもしれない。だが、「あなたは自分がからだだと感じますか?それとも自分がからだをもっていると感じますか?」と問いたとすると、ほとんどの人が車や家やほかの物と同様に、自分はからだをもっていると感じる。こういった状況の下では、からだは「わたし」というより「わたしのもの」である。そして、「わたしのもの」とは定義上、自己/非自己の境界の外側にあるものである。
人は自らの有機体全体の一局面に、より基本的で親密なアイデンティティを感じる。人が自らの真の自己であると感じるこの局面は、心、魂、自我、人格などとして知られている。生物学的にはこの心とからだ、魂と身体、自我と肉体の分裂や大きな溝には、いかなる根拠もない。だが、心理学的には疫病的な作用を及ぼす。
そして、この心身の分裂とそれに付随する二元論は、西洋文明の基本的とらえ方となっている。ここでわたしが人間の行動全体の研究に関して、「サイコ・ロジー」ということばを使わなければならないことにお気づきだろうか。
このことば自体が人間は基本的に心であり、からだではないという偏見を反映している。聖フランシスでさえ、自分のからだを「哀れなロバ」と呼んだ、ほとんどの人が、ロバにでも乗るように自分のからだを乗り回している感覚をもっていることは否定できないであろう。