大いなる約束の挫折
エーリッヒ・フロム著「生きるということ」紀伊國屋書店
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〈大いなる約束〉の壮大さと産業時代の驚くべき物質的知的達成とを思い描くことによって初めて、その挫折の実感が今日生じつつある衝撃を理解することができる。というのは産業時代は確かにその〈大いなる約束〉を果たさなかったし、ますます多くの人びとが次の事実に気付きつつあるからである。
(1)すべての欲求の無制限な満足は福利をもたらすものではなく、幸福に至る道でもなく、最大限の快楽への道ですらない。
(2)自分の生活の独立した主人になるという夢は、私たちみんなが官僚制の機械の歯車となり、思考も、感情も、好みも、政治と産業、およびそれらが支配するマスコミによって操作されているという事実に私たちが目ざめ始めた時に、終わった。
(3)経済の進歩は依然として豊かな国民に限られ、豊かな国民と貧しい国民との隔たりはますます広がった。
(4)技術の進歩そのものが生態学的な危険と核戦争の危険を生みだし、そのいずれかあるいは両方がすべての文明、そしておそらくはすべての生命に終止符を打つかもしれない。
ノーベル平和賞(1952年)の受賞のためにオスロを訪れた時、アルバート・シュヴァイツァーは世界にこう呼びかけた。「あえて現状に直面せよ…...人間は超人となった…...しかし超人間的な力を持ったこの超人は、超人間的な理性の水準にまで高まってはいない。彼の力が大きくなるにつれて、ますます彼はあわれむべき人間となる…...超人となればなるほど、自分が非人間的になるという事実に、私たちは良心を奮い起こさなければならない」。
〈大いなる約束〉の挫折は、産業主義に本質的に含まれる経済的矛盾とは別に、産業体制の二つのおもな心理学的前提によって、その体制の中に組み込まれていた。すなわち、
(1)人生の目標は幸福、すなわち最大限の快楽であって、それは人の感じるいかなる欲求あるいは主観的要求をも満足させることと定義される(徹底的快楽主義)。
(2)自己中心主義、利己心、そして貪欲は この体制が機能するために生み出さなければならないものであって、調和と平和をもたらすものである。歴史上いかなる時にも豊かな者が徹底的快楽主義を慣習としたことは、よく知られている。