経済の独り歩き
エーリッヒ・フロム著「生きるということ」紀伊國屋書店 より
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持つことへの情熱は終わることのない階級闘争をもたらすにちがいない。共産主義者は、彼らの体制が階級を廃止することによって階級闘争を終わらせると称しているが、それは作り話である。というのは、彼らの体制は生活の目的としての限りない消費の原理に基づいているからである。
だれもがより多く持つことを望むかぎり、階級の形成があるにちがいないし、階級闘争があるにちがいない。
そして徹底的快楽主義と限りない自己中心主義とは、もし十八世紀に極端な変化が起こらなかったなら、経済行動の指導原理として姿を現わすことはありえなかっただろう。
中世社会においては、原始社会のみならず他の高度に発達した多くの社会においてもそうであったように、経済行動は倫理的原理によって決定されていた。かくしてスコラ学の神学者にとっては、価格や私有財産のような経済的範疇は道徳神学に属する部分であった。
神学者は、彼らの道徳律を新しい経済的要請に適応させるための定式的表現(たとえばトマス・アクイナスが<正当な価格>の概念に与えた修正)を見いだすことができたが、それにもかかわらず経済行動は依然として人間行動であり、それゆえヒューマニズム的倫理の諸価値に従属するものであった。
幾つかの段階を経て、十八世紀の資本主義はラディカルな変化を経験した。すなわち、経済行動は倫理学および人間の諸価値から切り離されたのであった。実際、経済機構は自律的実体であって、人間の要求や人間の意志とは無関係である、と考えられた。
それはひとりで動き、自らの法則に従って動く体制であった。労働者の苦しみは、拡大の一途をたどる大会社の成長のためにますます多くつぶれてゆく小企業の場合と同様に、一つの経済的必然性であって、遺憾なことではあるが、自然の法則の結果であるかのごとく受け入れなければならないものであった。
この経済体制の発展を決定するものは、もはや〈人間〉にとってためになるものは何か、という問いではなく、体制の成長にとってためになるものは何か、という問いであった。