愛着を持たず無関心
エーリッヒ・フロム著「生きるということ」紀伊國屋書店
市場的性格は自分にも他人にも何ら深い愛着を持っていないので、彼らは言葉の深い意味での思いやりというものを持たないのだが、それは彼らがそこまで利己的であるからではなく、他人および自分とのつながりがそこまで弱いからなのである。
このことはまた、彼らが核兵器による破局や生態学的破局の危険を示すすべてのデータを知りながら、なぜそれらの危険に関心を持たないのかの説明にもなるかもしれない。自分個人の生命にかかわる危険に関心を持たないということならば、彼らがたいそう勇敢で利己心がないからだろうという説明が、まだできるかもしれない。
しかし、子供や孫に対する関心すら欠いていることを見れば、このような説明は許されない。
これらのあらゆる水準における関心の欠如は、彼らがいかなる情緒的なきずなをも、最も〈身近な〉人びとへのきずなさえも、失ったために起こったことである。事実、市場的性格と親密な者はいないし、彼らは自分自身とも親密ではないのである。
現代の人間は買ったり消費したりすることが好きなのに、どうして買ったものにこんなにも愛着を持たないのかという難問は、市場的性格の現象の中に最も意味深い答えを見いだす。市場的性格は愛着心を欠いているので、物に対してもまた無関心になるのである。
問題になるのはおそらく物の与える威信あるいは慰めであって、物自体には何の実体もない。物はまったく消費の対象なのである。それは友人や恋人においても同じことであって、彼らのだれに対しても物以上に深いきずなは存在しないので、彼らも消費の対象なのである。
市場的性格は与えられた環境のもとでの〈正しい機能〉を目的とするので、彼らは世界に対して主として頭脳で反応する。理解するという意味での理性は、ホモ・サピエンスの独特の資質である。実際的目的を達成するための道具としての操作的知性は、動物と人間とに共通している。
理性を持たない操作的知性が危険であるのは、それが理性的に見れば自己破壊的な方向へ、人びとを動かすからである。
実際、制御されない操作的知性が優秀であればあるほど、それは危険なのである。