情緒的生活の萎縮
エーリッヒ・フロム著「生きるということ」紀伊國屋書店
純粋に科学的な、疎外された知性のもたらす結果と、その人間としての悲劇を明らかにしたのは、ほかならぬ科学者チャールズ・ダーウィンであった。
自叙伝によれば、三十歳になるまで彼は音楽と詩と絵画に熱中していたが、それ以後はずっと、これらに対する趣味をすっかり失ってしまった。
「私の頭は多くの事実の収集をすりつぶして一般法則を生み出す、一種の機械になってしまったようだ・・・・・。これらの趣味の喪失は幸福の喪失なのだ。それは私たちの本性の情緒的な部分を弱めることによって、おそらくは知性を害するだろうし、より確実に道徳的性格を害するだろう」。
ダーウィンがここで述べている過程は、彼の時代から急速度で続いてきて、理性および心からの分離はほとんど完全なものとなった。とくに興味深いのは、この理性の堕落は、最もきびしく革命的な科学(たとえば理論物理学)の指導的な研究者の大部分においては起こらなかった ということ、そして彼らは哲学的、精神的問題に深い関心を持つ人びとであったということである。
私が言っているのはA・アインシュタイン、N・ボーア、L・シラード、W・ハイゼンベルク、E・シュレディンガーのような人たちである。
頭脳による操作的思考の至上権に伴って、情緒的生活は萎縮する。
情緒的生活は促進されることもなく、必要とされることもなく、むしろ最適度の機能の妨げであるとされたために、発育不良のままであって、子供の水準以上に発達してはいない。
その結果として、市場的性格は情緒的な問題に関するかぎり、奇妙に単純である。彼らは〈情緒的人物〉に惹かれることもあるが、自分の単純さのために、それがほんものなのかいかさま師なのかを、判断できないことが多い。
このことが、なぜこれほど多くのいかさま師が精神的、宗教的分野で成功できるのかの説明になるだろう。
それはまた、なぜ強い情緒を表現してみせる政治家が市場的性格に強く訴えるのか――またなぜ市場的性格は真に宗教的な人物と、強い宗教的情緒を偽る宣伝の産物とを区別できないのか――の説明にもなるだろう。