男らしさの歴史
エーリッヒ・フロム著「生きるということ」紀伊國屋書店
私たち自身や、ほとんどすべての人びとの行動や、政治的指導者たちを吟味してみれば、私たちにとってのよきもの、価値あるものの典型が異教の英雄であることは、否定しえない。ヨーロッパ=北アメリカの歴史は、教会への改宗にもかかわらず、征服と誇りと貪欲の歴史であり、私たちの最高の価値は、他人より強くなり、勝ち、他人を征服し、搾取することである。
これらの価値は、〈男らしさ〉の理想と一致する。戦い征服することのできる者だけが、男である。力の行使において強くない者は、だれでも弱い、すなわち、〈男らしくない〉のである。ヨーロッパの歴史が征服、搾取、力、制圧の歴史であることは、証明するまでもない。
ほとんどいかなる時代も、これらの要因を特徴としない時代はなく、いかなる人種も階級もこのことから除外されるものはなく、しばしばアメリカ・インディアンのように大量虐殺をされた例もあるうえに、十字軍のような宗教的な企てでさえ、例外ではない。
このような行動を動機づけたのは、ただ外的な経済あるいは政治であって、奴隷商人、インドの支配者たち、インディアンを殺した連中、中国人に強要して彼らの国へ阿片を輸入させたイギリス人、二つの世界大戦の扇動者たち、そして次の戦争の準備をしている連中は、みな心の中はキリスト教徒なのだろうか。
それとも、おそらくは指導者たちだけが強欲な異教徒で、大部分の人びとは依然としてキリスト教徒であったのだろうか。もしそうなら、私たちはもっと勇気づけられるだろう。残念ながら、そうではない。
確かに、指導者たちはより多くを得られるゆえに、彼らに従う人びとより強欲であることが多かったのだが、征服し勝ちたいという望みが、過去も現在も社会的性格の一部でなければ、彼らは計画を実現することができなかっただろう。
私たちはただ、人びとが過去三世紀のさまざまな戦争に参加した時の、激しい気違いじみた熱狂ぶりを思い起こすだけでよい――何百万という人びとが、〈最強国〉、〈名誉〉あるいは利益のイメージを守るために、国民的自殺の危険を冒そうと決意したことを。