収入と消費が成功の証?
ロバート・N・ベラー「心の習慣・アメリカ個人主義のゆくえ」みすず書房 より
下層階級のアメリカ人にとってみれば、こうした姿勢は必ずしも自然なものではない。シュナイダーとスミスに対し、あるインフォーマント(調査において学者に情報(information)を提供してくれる人)はこう言っている。「カンペキにキメようったって、疲れるだけじゃねえのかね」。
上昇移動や「成功」が生活の基軸であるような人間にとって、アメリカ社会の主たる特徴は「個人的達成の努力に対し、正常な結果が期待できること」である。この考えによれば、家族その他の集団のしがらみを脱した個人は、自らのベストをつくすチャンスが与えられる。ここでは、機会の平等は本質的な要件だが、結果の不平等は当然のことと見なされる。だが自らのベストをつくすといっても、何がそのベストであるのかは定かでない。
中産階級の人間にとって、個人主義が両義的なものとなるのはまさにこの点である。シュナイダーとスミスは「地位の印となるようないかなる固定的な行為の基準もない。地位を測るのに適した、唯一明快な定義のある文化的基準は、収入の額、消費の程度、目的達成のための合理的手順への一致度などの大まかな区分けである」と言う。
かくして中産階級の個人は、達成へ向けてのきわめて自律的で苛酷な追求への参加を動機づけられる一方で、達成の度合いを測るのに、隣人の収入・消費水準以外には、何らの基準もないという状態におかれざるをえない。こうしてまた新たな自律性と順応性との衝突が始まる。これはもうアメリカ的個人主義の宿命であるように見える。
しかしシュナイダーとスミスの掲げる文化的基準の二番目、「目的達成のための合理的手順」については、もしかすると隣人の様子を不安げに窺ったりなどせずに個人的な自律性を貫くことができそうである。
新たな問題解決への技術的合理性の適用を仕事としている中産階級の知的専門職の場合、適切な問題解決や解決法の刷新は事柄自体に基準がある確かな「成功」の証しとなる。こうした能力が公共善のための業務で発揮されるときには――たとえば最善の形態での医療において――、社会的価値のある、順応主義的でない個人主義が表出されることになる。
しかし技術的能力が私たちが「キャリア」と呼んでいる生活様式に取り込まれてゆくにつれ、合理的な問題解決に対する関心もまた(社会的貢献への関心は言うに及ばず)、収入と消費のみを尺度とする成功の基準に従属するようになる。医者、弁護士などの知的専門職はしばしばこうした体験をしているが、こうなると、仕事それ自体に本来宿っているはずの価値がたしかにあるのか疑わしくなってくる。