官僚制的個人主義
ロバート・N・ベラー「心の習慣・アメリカ個人主義のゆくえ」みすず書房 より
アメリカの個人主義の両義性と両面感情は、文化的矛盾と社会的矛盾の両方に由来するものである。私たちは真の自己、つまり すべての文化的・社会的影響から独立している自己、当の自己に対して以外はいっさいの責任を負わない自己、自己実現こそが人生の意味であるような自己を見つけることを、おそらくかつてないほどに主張している。
だが私たちは他者を操作し、他者によって操作される巨大な官僚機構――マンモス大学や企業や政府機関――のなかを潜り抜けることに多大な時間を費している。
アラスデア・マッキンタイアは、経営管理者やセラピストに代表されているような生活の形態を「官僚制的個人主義」と呼んでいる。この官僚制的個人主義に、個人主義の両義性と矛盾が寒々と露呈されている。
なぜなら、そこでは私的決定の自由を買い取るために、もっとも公共的な決定を官僚制的経営管理者と専門技術者に引き渡すという犠牲を払っているからである。
官僚制的個人主義のもとでは、近代の啓蒙的個人主義の第一の要求である被治者の同意はほとんど形骸化している。これは、個人主義が自らの存立条件を破壊する傾向をよく物語っている。しかし、私たちのインタヴューでは官僚制的個人主義への傾向が見られはしたものの、それが主流を占めているというほどではなかった。
むしろアメリカ的個人主義の古典的極性のすべてが見られた。すなわち自律性と独立独行に対する深い欲求に対しては、共同体という場において他者と人生を分かちあうことなくして意味ある人生を送ることはできないという同じように深い確信が。
すべての個人の尊厳に対して平等な権利を与えるべきだという信念に対しては、極端な場合には人々から尊厳を奪うことになりかねない報酬の不平等を正当化しようという努力が。
人生には実践的な有効性と「リアリズム」が必要だという主張については、妥協は倫理的に致命的だという感情が見られたのである。
アメリカ的個人主義の内部にある緊張は、両面感情の古典的ケースであると言えよう。私たちは独立独行と自律性を強調している。
私たちは社会的コミットメントを維持することなしには人生は空虚なものになってしまうと深く感じている。自立は大事だが、人間はたがいに相手を必要としている――そう感じていながら、しかし私たちはそれをはっきりと口に出すことには躊躇してしまう。
それを言ったら個人の独立性がなくなってしまうのではないかと恐れているのだ。だが、もし私たちが、個人主義の有する孤立化の作用にたえず歯止めをかけてくれるような実践に取りかからないままでいるとしたら、私たちの人生における緊張はさらに大きなものになることだろう。