魔女狩り
ケン・ウィルバー著「無境界・自己成長のセラピー論」平河出版社
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どこかで、大半の人が何らかの形の魔女狩りを見たり聞いたり、あるいは参加したことがあるはずである。これはきわめてグロテスクなものである。だが、投影のもたらす惨事と自己の弱点に対する人間の頑固な盲目性を物語るものでもある。
同時に、魔女狩りは投影の真相を如実に表す実例を提供してくれる。他者のなかにあるわれわれが嫌うものは、自らのなかにあってひそかに嫌っているものだけであるという真相である。
魔女狩りは悪魔的、極悪非道、あるいは少なくとも下劣に思える自分自身のなかの特徴や傾向を見失ったときにはじまる。実際にはこの傾向や特徴は、ちょっとした歪み、愚劣さ、意地悪さのような、まったくとるにたらないものの場合が多い。誰もが暗い側面をもっている。
だが、「暗い側面」は「悪い側面」を意味するものではなく、誰にもちょっとした腹黒いところがあることを意味しているにすぎない。
「誰の心のなかにもコソドロが住んでいる」。
これは充分に自覚して受け入れていけば、実際には人生のいい薬味になるものである。ユダヤ教の伝統によると、人類が退屈で滅びてしまうことを恐れて、神自身が最初にあらゆる人のなかに気紛れで風変わりな歪んだ傾向を植えつけたといわれている。
だが、魔女狩りをする人は自分には腹黒いところがないと信じている。奇妙な正義感を装ってしまうのだ。本人は、自分には腹黒いところがないと信じたがり、また他人にもそう思わせたがっているが、実際には自分の腹黒さが極度に不快なのだ。自分のなかでそれに抵抗し、否定し、捨て去ろうとする。
だが、当然、それは残りつづける。それも、自分のものとして残り、何らかの注意を求めて絶えず騒ぎつづける。腹黒さが注意を求めて騒げば騒ぐほど、本人の抵抗感は強まる。抵抗すればするほど、腹黒さはますます力を得て、さらに注意を要求する。そして最後に、もはや否定することが不可能となり、それを目の当たりにしはじめる。
だが、本人にできる唯一の見方、他人のなかにあるものとして目の当たりにするのである。誰かがちょっとした腹黒さをもっているのは知っているが、自分ではありえないところから、腹黒いのは誰かほかの人でなければならない。やるべきことはこの誰かほかの人を探すことである。
これは非常に重要な課題となる。自分の影を投影することのできる人を見出すことができないとしたら、それを自分自身の手許においておかなければならなくなるからである。抵抗感がきわめつけの役割を果たすのはこの時点である。歯止めのない情熱で自らの影を嫌い、抵抗し、あらゆる手段を使って消し去ろうとしたように、今度はその同じ情熱で自分の影を投げかけた相手をさげすむのである。