「石を投げる人」の心理
ケン・ウィルバー著「無境界・自己成長のセラピー論」平河出版社
この魔女狩りはときにきわめて残虐な方向に向かう。ナチによるユダヤ人の迫害、セイラムの魔女裁判、黒人を生贄にするクー・クラックス・クラン。すべての場合、迫害者が被害者を忌み嫌うのは、まぎれもなく、野蛮な怒りで迫害者自身が暴露する自らの特徴そのものである。
魔女狩りがそれほど狂暴ではない形で現れることもある。たとえば、「どこのベッドの下にも赤がいる」という冷戦の恐怖。それが漫画的な現れ方をすることもよくある。ゴシップの対象よリゴシップを流す人のことがよくわかる、絶えることのないゴシップ。これらはすべて自らの影が他人のものであることを証明しようと必死になっているケースである。
多くの男女がホモセクシャルを嫌悪し、饒舌に攻撃する。ほかのことに関してはまともに理性的にふるまう人であっても、ホモセクシャルに関してはとりつかれたように嫌悪する。
そして、驚くほど感情的になり、ゲイの市民権停止(あるいはもっとひどいこと)を提唱したりする。だが、なぜそういった人はホモセクシャルをそれほど嫌うのだろうか?奇妙なことに彼がホモセクシャルを嫌うのは自分がホモセクシャルだからではない。秘密裡に自分自身がそうなることを恐れているものをホモセクシャルに見出し、自らを嫌うのである。
自分の自然な避けることのできないちょっとしたホモセクシャルな傾向が不快でたまらず、それらを投影する。こうして、他人のなかのホモセクシャルな傾向を嫌うようになる。だが、まず最初に自分自身のなかのそういった傾向を嫌っているからそうなるのである。このように、魔女狩りは何らかの形で進行していく。われわれは、彼らが汚く、間抜けで、歪んでいて、不道徳……だから嫌悪するのだという。
彼らはまさにわれわれがいうとおりかもしれないし、またそうでないかもしれない。だが、それは関係のないことだ。なぜなら、自分自身が彼らに帰してしまった卑しむべき特徴を、知らず知らずのうちにもっているときにのみ彼らを嫌うからである。
認めることを嫌悪している自分自身の側面を、彼らが絶えず思い出させてしまうから、彼らを嫌うのだ。
投影の徴候を示すものが、徐々に見えてきた。環境のなか(人とか物)にあって単に情報を与えてくれるのではなく、強くわれわれに影響を与えるものは一般にわれわれ自身の投影である。
迷惑、狼狽、嫌悪するもの、あるいは逆に魅了、強要、夢中にさせるもの――これらはふつう、影の反映である。古い諺にあるように、
ようく見たら、やっとわかった。あなただ、あなただと思っていたものは、ほんとうはわたしだった。