リヴァイアサン
ロバート・N・ベラー「心の習慣・アメリカ個人主義のゆくえ」みすず書房 より
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近代がまさに始まろうとするときトーマス・ホッブズが描いた人間存在の姿は、やがて来る社会をあまりにもみごとに言い当てたものであった。彼は「人の一生」を競争にたとえて言う。「だがこの競争には、つねに先頭を走る以外にいかなるゴールも勝利の栄冠もない。そしてそこでは……」。
(彼がこれでもかと並べるもののほんの一部をここに示せば)
誰かを後に見るのは勝利。誰かを前に見るのは卑下。突然転ぶのは嘆くべきこと。他の人間が転ぶのは笑うべきこと。いつも後ろから追い抜かれるのは悲惨。いつも前を追い抜くのは幸福、そしてコースから外れるのは死。
『リヴァイアサン』のなかでホッブズは、人生についての彼の教えを要約して、「人類の一般的性向」の筆頭は「死ぬまで止むことのない、永続的で休み知らずの権力欲につぐ権力欲」であると論じている。しかしいまや私たちは、彼のいう競争には勝者はないということ、そしてもし権力が私たちの唯一の目標であるなら、やがて来るものは個人の死だけではなく、文明の死であることに気づき始めている。
しかしなお私たちには、自分たちが乗り出しているコースを再考する能力がある。過去において道徳的関心をもった社会運動が、共和主義的あるいは聖書的な感情に導かれつつ私たちを大いに支えてくれたし、これからもそうしてくれるかもしれない。
しかし私たちは、かつて自らのもっとも深いところにある前提を、これほどまで根本的に再考する必要に迫られたことはなかった。今日私たちの抱える諸問題は、たんに政治的なものではない。それらは道徳的なものであり、人生の意味に関わるものである。私たちは、経済成長の続く限りは、それ以外のすべては私的領域に委ねてしまえると考えてきた。
その経済成長もつまずき、これまで私たちが暗黙のうちに依存してきた道徳的エコロジーも乱れてきている今となって、私たちは、共同生活には物質的蓄積への排他的関心を超えたものも必要だということを理解し始めている。おそらく人生は、先頭を切ることが唯一のゴールであるような競争ではないだろう。
おそらく真の幸福は、たえず前の者を追い抜くことで得られるものではないだろう。おそらく 真理は、近代西洋を除く世界の大部分がつねに信じてきたこと、すなわちそれ自体において良い、そのものとして充実をもたらしてくれる生の実践が存在するということのなかにあるのだろう。
おそらくそれ自体として報いのある労働の方が、ただ外的な報酬があるだけの労働よりも人間にとってふさわしいものだろう。おそらく愛する者への永続的なコミットメントと同胞市民への市民的友情は、休む間もない競争や不安げな自己防衛よりも好ましいものだろう。おそらく存在そのものの神秘に触れて発する感謝と驚きの表現としての共同の信仰は、何よりも重要なものだろう。