豊かさの貧困
ロバート・N・ベラー「心の習慣・アメリカ個人主義のゆくえ」みすず書房 より
☟
もしそうであるなら、私たちは私たちの人生を変えなければならない。そして私たちが好んで忘れてきたものを思い出さなければならない。私たちは自らを創造したわけではない。私たちが今こうしてあるのは、私たちを形成した共同体があるからである。またそうした共同体を存立せしめているところのもの、すなわちパウル・ティリッヒのいう「歴史における恩寵の構造」があるからである。このことを私たちは思い出す必要がある。
私たちはこの地球上での私たちの生命の物語を、打ち続く成功の連なりとしてではなく、喜びと苦難の歴史として見る必要がある。私たちは、今日の世界において苦しんでいる何百万という人々のことを、そして過去における彼らの苦しみが今日の私たちの豊かさを可能にした何百万という人々のことを、思い出す必要がある。何にもまして、私たちは自らの貧しさを思い出す必要がある。
私たちは豊かな国民と呼ばれてきた。一人あたりのGNPは他のいくつかの国によって追い抜かれたとはいえ、まだまだ私たちは非常に豊かである。それでも私たちの条件の真実の姿は、貧困である。
私たちは結局のところ、この地球上において無防備である。物質的な所有は、私たちに幸福をもたらさなかった。私たちの軍隊は、核による破壊を防ぐことはできない。いかに生産性を上げたところで、新しい武装システムを造ったところで、私たちの条件の真実を変えることはできない。
私たちは、自分たちが他の人間から区別された特別な創造物だと思ってきた。20世紀後半の現在、私たちは、自らの貧困はもっとも貧しい国々の貧困と同じくらい絶対的なものだということを理解している。私たちは力からまた力へと追い求めてゆくなかで、人間の条件というものを否定しようと試みてきた。
私たちは人類にふたたび加わり、自らの本質的な貧しさを贈り物として捉え、私たちの物質的富を貧しい人々と分かち合った方が良いのだ。
こうしたヴィジョンは、現在のアメリカの政治的言説の切り詰められたスペクトラムから見ると、保守でもリベラルでもない。それは、「伝統的な」社会の調和の世界へと引き返そうとするのではない。そうした社会の知恵から学ぶ用意は十分あるとしても。それはいっさいの伝統に対する近代的な批判を拒絶しようというのではない。しかしいまやそれは批判の批判を展開し、人生は、信じることと疑うこととのバランスをとりつつ歩んでゆくものだと主張する。
こうしたヴィジョンは、知識人の理論だけからもたらされるのでなくアメリカ人が すでに営んでいる生の実践からもたらされるものである。こうしたヴィジョンは、社会的関心を究極的関心ヘと結びつけ、そのどちらをも軽んずることがないようなあり方を求める。とりわけこうしたヴィジョンは、私たちの友人、私たちの同胞市民たちの討論と実験によって確認され、訂正されることを望んでいる。