強者と弱者の二元論
<櫻井ジャーナル>2021.08.22「COVID-19騒動が生み出したピューリタン的な環境」より
「COVID-19パンデミック」は高リスク「ワクチン」を接種させる口実に使われるだけでなく、社会を収容所化し、政治経済システムを破壊して人びとを苦しめ、私的権力が世界を直接統治する「新世界」を作り出そうとしている。それが「リセット」だろう。
こうした政策を推進している私的権力が拠点として使っているアメリカはWASPの国だとも言われている。白人(W)、アングロ(A)、サクソン(S)、そして「P」。通常、Pはプロテスタントの頭文字だとされているが、ピューリタンのPだと言う人もいる。それほどピューリタンの影響力は今でも大きいようだ。ピューリタンが1620年代から入植したボストンは今でも大きな存在感がある。
ピューリタンは17世紀の半ば、イギリスを支配していたチャールズ1世の体制を倒した。いわゆるピューリタン革命だが、その指導者がオリバー・クロムウェル。地主や富裕な商工業者に支持されていた独立派のメンバーだ。革命の際、小農民や職人層に支持されていた水平派とクロムウェルは手を組んでいたが、革命後に水平派は潰される。その後、クロムウェルはアイルランドやスコットランドを侵略して住民を虐殺、アイルランドの人口は激減する。虐殺前の1641年には147万人だったが、52年には62万人へ減ったという。50万人以上は殺され、残りは「年季奉公」や「召使い」としてアメリカなどに売られたと言われている。
その頃に書かれた「ウェストミンスター信仰告白」によると、「神は人類うち永遠の生命に予定された人びと」を選んだが、「これはすべて神の自由な恩恵と愛によるものであって、決して信仰あるいは善き行為」のためではないとされている。(マックス・ウェーバー著、大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波書店、1989年)
奴隷も支配者も貧者も富豪も神が決めたことであり、社会的な強者は弱者のことを考える必要はないということにもなり、金貸しを認めた。そうした考え方は金持ちにとって魅力的で、プロテスタントが広がる大きな原因になったと言えるだろう。
カルバンたちは「禁欲」を打ち出すが、マックス・ウェーバーによると、こうした禁欲は「心理的効果として財の獲得を伝統主義的倫理の障害から解き放」ち、「利潤の追求を合法化したばかりでなく、それをまさしく神の意志に添うものと考えて、そうした伝統主義の桎梏を破砕してしまった」。(マックス・ウェーバー著、大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波書店、1989年)
生まれ育った環境や運、そして犯罪行為もすべて神が事前に定めていたのであり、どのような手段でカネを儲けたとしても、それは神の意志だということだ。つまり、人間にとって善行は無意味であり、自分が「選ばれた人間」だと信じる人びとは何をしても許されるということになる。
キリスト教の聖典である新約聖書のマタイによる福音書やマルコによる福音書では「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と書かれているのだが、カルバンたちはこれを否定。現在、世界の富は1%に満たない人びとに集中しているが、それは彼らが神に選ばれたからだということなる。「COVID-19対策」で経済システムが麻痺し、倒産、失業、ホームレス、そして自殺者が増えているが、カルバンたちの考えに従えば、これも神の意志だ。「自己責任」とはカルバンたちの信仰を現代風にアレンジしたものだろう。
この流れを受け継いだアメリカの宗派は1920年から33年にかけて、アルコール飲料の製造、輸入、輸送、販売を基本的に禁止させた。似たようなことが緊急事態宣言下の日本でも行われている。
カタリ派
ジャック・ブロス「世界宗教・神秘思想百科」JICC出版局
カタリ派の人びとは、彼らが断罪する教会に異端派と見なされた。教会はカタリ派に対して十字軍を出した。カタリ派の敗北はオック語を使用する文明の敗北でもある。
ギリシア語カタロス《清浄な》から派生した「カタリ」という言葉には、11世紀末期以来、トゥールーズ伯爵領とラングドック地方で広まった異端派カタリ派、あるいはアルビジョワ派の強い願いが表現されている。
この運動はマニ教的なグノーシス主義からインスピレーションを受けた。カタリ派は、福音を堕落させた教会に反発して、原始キリスト教徒の清浄さへの回帰を唱えるだけでなく、野蛮な北フランス地方の文化に対して、きわめて繊細なオック語の文化を肯定する。
11世紀末期に、衝突が避けられなくなり、やがて政治問題になった。トゥールーズ伯爵やレーモン六世はカタリ派を支持した。1208年に、教皇使節ピエール・ド・カステルノが殺害され、それまで平和的に異端を縮小しようとしていた教皇インノケンティウス三世は、このとき十字軍を開始した。シモン・ド・モンフォールが導く北部の領主たちで おもに構成された十字軍は、情け容赦なく戦争を行った。
1229年に、パリ条約でラングドックはフランス領に併合され、カタリ派は異端審間所で糾弾された。彼らの最後の拠点モンセギュールは、 1244年に陥落し、擁護者たちは火刑で滅んだ。
■カタリ派の教え
今日、その教えは異端審間所の訴訟文書だけでなく、1250年と1280年のあいだにイタリアで書かれた『儀式』と『二原則の書』の最近の復刊のおかげで、知ることができる。
二元論者のカタリ派の教義は、聖書の特殊な解釈に基づいているが、二つの対立する原理、「精霊」=善と「物質」=悪の存在を肯定していた。すべての善の源泉である唯一神によって造られた人間は、死滅すべき物質のなかに悪魔により引きずりこまれた。この物質は、神が主人である創造の現れでいちばん下位にある。
人間を救うために、神はこの不純な世界にキリストを降ろした。イエスは、救いの道を教えたあとで、ふたたび天に昇り、慰め役の精霊に霊魂の世話をさせる。神の子が人になる受肉は、したがって堕落である。肉体から離れることでようやく、人間のなかの霊魂は解放される。その手段は、きわめてきびしい苦行であるが、それは、禁欲と、食を完全に断つ断食を含み、結婚と生殖を排除する。
そのような掟は「完全遵守者」によってしか守られなかった。彼らは精霊の洗礼、 コンソラメントゥムを受けたあとで(この精霊こそこの世で彼らを天使にしていた)、信仰に身を捧げていた。普通の信者あるいは善良な人たちは、尋常な生活を送り続けていたが、死の危機のときにコンソラメントゥムを受ける義務を負うていた。
宗教改革の普及
ジャック・ブロス「世界宗教・神秘思想百科」JICC出版局
1522年に、宗教改革はツウィングリによリスイスにもたらされた。神秘主義者であるよりは合理主義者だったツウィングリは、宗教を民衆のものとし、修道院を開鎖し、ミサを取り止めた。市民の力に支えられて、ツウィングリは政治的な役割を果たした。
そのとき、人文主義者のエコランパディウスの指導のもとに、バーゼルが、それからベルン、ザンクトガレン、グラールス、それにシャフハウスなど改革派の州が、残りのカトリック教の州と対立した。
改革派の軍隊は1531年にカッペルで粉砕されたが、チューリッヒで明晰で穏健なブリンガーは宗教改革を維持し、ジュネープのカルバンに近づき、『スイス第二信仰告自』を書いた。これはスコツトランドやハンガリーやポーランドにまで広がった。シュトラスブルクでは、 ルターの思想が1521年以来広まり、宗教的な熱狂を引き起こした。
マルチン・ブーツァーは、多様な広がりのなかに統一したものを維持しようと努め、シュトラスブルク教会の組織のなかで大きな役割を果たした。しかしカール5世は彼の追放を要求し、ブ―ツァーはイギリスに渡り、ケンブリッジの教授として生涯を終えた。
1520年以来、 ルターの思想はフランスに普及し、16世紀前半の人文主義者たちのなかで「福音書」と個人の信心への回帰運動が現れたが、改革の急速な発展は少しずつ王権の反動を引き起こした。しかしながらフランス人のギヨーム・ファンルやジャン・カルバンがジュネーブで起こした宗教改革の進展を阻むことはできなかった。
ジュネーブから、カルビニズムがフランスや教会管区、さらにはボヘミアやハンガリー、そしてポーランドまで伝播し、教会中心ではなく厳格な神中心の信仰に従うことになった。他方、スコットランドでは、ジョン・ノックスが、カルビニズムの教会より自由な長老派教会を創始した。イギリス国教会との対立にもかかわらず、王国全体に根付いた。
宗教改革
ジャック・ブロス「世界宗教・神秘思想百科」JICC出版局
■分裂したキリスト教
長いあいだ抑えてきた教会に対する反抗の運動は、北ヨーロッパにたちまち広がり、16世紀に新しい精神世界を生んだ。
14世紀以来、教会の衰退が明らかになり、教皇のアヴィニヨン捕囚と1378年の教会大分裂で頂点に達した。次第に、キリスト教徒たちは、無学で、しばしば堕落していた聖職者たちから離れ、もっと単純で、もっと内面的な宗教性を望んでいた。ウィクソフとイギリスの弟子たちの説教、それからボヘミアのフス信奉者たちの宗教的で国民的な蜂起(容赦なく鎮圧された)は、16世紀初頭に突発した宗教改革の前兆だった。そのとき、 ルネッサンスの人文主義は中世のスコラ学を攻撃し、印刷術は聖書と改革者たちの書物を広めた。
1517年に、免罪符頒布でスキャンダルが引き起こされたとき、はるか以前から待たれていた反逆ののろしが、 ルターのおかげで、初めて上がった。ルターはローマと断絶しようとは夢にも思っていなかったが、 1520年以後、破門の教勅が突きつけられた。ルターの説教と論文は興奮を巻き起こしたが、やがてカールシュタットのような過激主義者やミュンツァーのような社会変革者に追い越された。ルターは当時、激しく反応していた。
はじめ民衆のルター派教会は、諸侯の統制のもとで、領邦教会になった。ルターは、 1525年から死ぬまで、彼の弟子で『アウクスブルク信仰告自』の著者メランヒトンに助けられて新しいキリスト教団を組織した。メランヒトンは、妥協的な考え方で、変革者ルターの過激さをなだめようと努めた。
ルターが死んだとき(1543年)、宗教改革はデンマーク、ノルウェー、スウェーデンに広がった。
ドイツでは、カール五世が改革の主義主張を攻撃し、カトリック教を復活させると決定したが、フランスに助けられたプロテスタントの諸侯が皇帝にその決定の執行を制止させることができた。 1555年、アウグスブルクの宗教和議でドイツの宗教分裂が承認され、諸侯が自分の宗教を臣下たちに自由に押しつけることができた。
プロテスタンティズム
ジャック・ブロス「世界宗教・神秘思想百科」JICC出版局
■宗教改革の諸分派
キリスト教徒すべてを司祭にする<普遍的な聖職>の原理は、結果として改革した教会のほかに多数の分派を生み出した。
宗教的な意味のプロテスタントという言葉が初めて現れたのは、シュパイヤー第二国会(1529年)のあとだった。ルター派の諸侯や諸都市が敵対するカトリック教徒の諸要求に対して抗議した。そのときから、プロテスタンティズムは宗教改革から出てきた多様な流れの全体を指すことになる。
これらの流れはすべて16世紀の宗教改革者たちから受け継いだ本質的な特徴をもっている。すなわち聖書のなかに記録されたような神の御言葉の絶対的な優位、聖書と祈りによる神と信者との直接の関係、信仰のみによる救済である。
宗教改革には未来の分裂の芽が含まれていた。16世紀以来、天啓論や千年至福論に基づく運動は、地上に神の王国を建設しようとして、存在する社会秩序に反逆したが、宗教改革者たち自身もそれらを鎮圧しなければならなかった。
そのときまでカトリックの位階制度により保証された宗教的な統一は、それ以来破れてしまった。宗教改革が始動させた解放運動の新しい発展に、対立するものはもう何もなかった。しかし宗教改革は最終的には解放運動を抑止したのだ。
政治権力に従ったルター主義、カルビニズム、イギリス国教会は、社会制度のなかに組みこまれていった。公的になったこれらの教会は、もっと急激な宗教改革を望む人びとと対立した。