宗教改革
ジャック・ブロス「世界宗教・神秘思想百科」JICC出版局
■分裂したキリスト教
長いあいだ抑えてきた教会に対する反抗の運動は、北ヨーロッパにたちまち広がり、16世紀に新しい精神世界を生んだ。
14世紀以来、教会の衰退が明らかになり、教皇のアヴィニヨン捕囚と1378年の教会大分裂で頂点に達した。次第に、キリスト教徒たちは、無学で、しばしば堕落していた聖職者たちから離れ、もっと単純で、もっと内面的な宗教性を望んでいた。ウィクソフとイギリスの弟子たちの説教、それからボヘミアのフス信奉者たちの宗教的で国民的な蜂起(容赦なく鎮圧された)は、16世紀初頭に突発した宗教改革の前兆だった。そのとき、 ルネッサンスの人文主義は中世のスコラ学を攻撃し、印刷術は聖書と改革者たちの書物を広めた。
1517年に、免罪符頒布でスキャンダルが引き起こされたとき、はるか以前から待たれていた反逆ののろしが、 ルターのおかげで、初めて上がった。ルターはローマと断絶しようとは夢にも思っていなかったが、 1520年以後、破門の教勅が突きつけられた。ルターの説教と論文は興奮を巻き起こしたが、やがてカールシュタットのような過激主義者やミュンツァーのような社会変革者に追い越された。ルターは当時、激しく反応していた。
はじめ民衆のルター派教会は、諸侯の統制のもとで、領邦教会になった。ルターは、 1525年から死ぬまで、彼の弟子で『アウクスブルク信仰告自』の著者メランヒトンに助けられて新しいキリスト教団を組織した。メランヒトンは、妥協的な考え方で、変革者ルターの過激さをなだめようと努めた。
ルターが死んだとき(1543年)、宗教改革はデンマーク、ノルウェー、スウェーデンに広がった。
ドイツでは、カール五世が改革の主義主張を攻撃し、カトリック教を復活させると決定したが、フランスに助けられたプロテスタントの諸侯が皇帝にその決定の執行を制止させることができた。 1555年、アウグスブルクの宗教和議でドイツの宗教分裂が承認され、諸侯が自分の宗教を臣下たちに自由に押しつけることができた。