ジャン・カルバン
ジャック・ブロス「世界宗教・神秘思想百科」JICC出版局
■宗教改革の第二の大司教―ルターよりも急進派のカルバンは、浄化した教会を組織化し、新しい社会を作ろうとした。
ノワイヨン司教区教会参事会の法律顧間の父は、カルバンを教会に関係させていた。彼はパリのコレージュ・ド・モンタギュで長いあいだ勉強し、オルレアンとブールジュで法律を修めた。パリに戻って、文学に向かい、人文主義者の仲間と交流し、 1534年にきわめて学問的な『セネカの「寛容論」注解』を出版した。
彼が宗教改革を決意したのは、おそらく1532年のことであろう。同年11月大学長のニコラ・コップは、ルターの命題に好意的な檄を発した。議会は彼の逮捕と、この檄文を起草したのではとの嫌疑がもたれた彼の友人のカルバンの逮捕を発令した。カルバンはアングレームにのがれ、さらにフランソワ一世の妹で、宗教改革の擁護者マルグリット・ド・ナバールがいるネラクに避難した。
その後、彼はバーゼルに移ったが、ここで1534年に『キリスト教綱要』のラテン語訳を出版した。ジュネーブに一時滞在したカルバンは、ここで宗教改革を進めていたギヨーム・ファレルに引き止められたが、 1538年に彼らは二人とも反対派に排除されてしまう。
カルバンは、宗教改革の中心地となったシュトラスブルクに来るようマルチン・ブツァーに招待されたのを受け、そこでフランス人亡命者の面倒を見た。 1541年にファレルにジュネーブに呼び戻されたカルバンは、この都市を模範的な市にしようと決心し、そこで彼の神学者として、また説教師としての栄光もあって押しも押されもせぬ指導者になった。
■改革された教会
彼の「規則」の実践にあたって、新教に四つの聖職者が作られた。説教を担った牧師、教育を任された牧師、病人が貧者の世話をする牧師、宗務局に集まり生活態度の矯正を見守り、めいめいの市民の密接な監視を行う長老である。このきびしさは反対派を生み出したが、カルバンが鎮圧した。
彼は、穏健派や直接的な天啓を受けたと主張する人びとたちを刺激した。 1553年に、カトリック教徒に従い、ジュネーブに避難したミシェル・セルベ医師を断罪するのにカルバンは躊躇せず、火あぶりの刑に処した。1559年にジュネーブ・アカデミーが創設され、初代院長はテオドール・ド・ベーズだった。病弱で老け込んだカルバンは、晩年相当苦しんだが、おのれの任務を忘れることはなかった。
ジュネーブ出身の宣教師たちがオランダやドイツ諸国やイギリスやスコットランドやポーランドやハンガリーまで教義を広めた。
第一回教会会議が1559年に設立したフランス新教教会は、 1561年に2150を数えた。カルバンが死んだとき、カルビニズムはルター派よりすでにはるかに広まっていた。臆病で病的なカルバンは、《神の唯一の栄光》の名において、人間の導き手の使命を果たしていた。このことは、彼がしばしば非難された頑固一徹であることを証明していた。