正常は、もはや異常に
エーリッヒ・フロム著「自由からの逃走」東京創元社
精神分析家も合めて多くの精神病学者は、過度の悲しみや怒りや興奮をもたない「正常な」パースナリティの像をえがきだした。かれらは「正常な」個人の通例の型と一致しないパースナリティの特性やタイプを呼ぶのに、「小児的」とか「神経症的」とかいう言葉を用いる。
この種の影響は、見方によれば、以前のより直接的な呼びかたよりも危険である。
以前には個人は少くとも自分を批判するある人間なり原理なりが存在することを知っていて、それに抵抗することができた。
しかしいったいだれが「科学」に抵抗することができるであろうか。
同じような歪みは感情や感動と同じく、独創的な思考にもおこる。教育のそもそもの発端から、独創的な思考は阻害され、既製品の思想がひとびとの頭にもたらされる。
このことが、幼児のばあいには、どのようになるかはたやすくみることができる。かれらは外界について好奇心でいっぱいになり、知的にも肉体的にもそれを把握しようと欲する。かれらは真理を知ろうと欲する。というのは真理は未知の強力な世界のなかで、自分に方向をあたえるもっとも安全な道であるから。
ーー 欠けているのは「生きた確信」である。真理そのものを愛する「情熱」である。この確信、この情熱からくる無限の歓喜と満足である。 ➡ 内村鑑三 ーー蓼丸
ところがかれらは真剣にとり扱われない。その態度があからさまな軽視となろうと、(子どもや老人や病人のような)力のないすべてのものにたいしてよくとられるような、巧妙な丁重さとなろうと、それは問題ではない。
この取りあつかいはそれだけで独立的な思考を強く妨害するが、さらにいっそう悪いハンディキャップが存在する。すなわち一般の大人の子どもにたいする態度に典型的にみられる不誠実――その多くは意図的なものではないとしても――である。その不誠実は、世界について架空なことが子どもにあたえられるばあいにもみられる。
それはちょうど、サハラ沙漠を探検するにはどんな準備をしたらよいかとたずねる人間に、北極の生活についての知識が有益であるというのと同じことである。この一般的な、あやまった世界の表象のほかに、個人的ないろいろの理由で、子どもに知らせたくない事実をかくそうとする、特殊な嘘もたくさんにある。