エピメテウス的な構え
C.G.ユング「タイプ論」みすず書房
周知のように、誰でも外界から入ってくるデータを基準にして行動の仕方を決めているが、しかしこれが決定的な役割を果たす場合もあれば、それほどでない場合もある。
ある人は外が寒いという事実があるとすぐにオーバーを着ようとするが、しかし他の人は体を鍛えたいという理由からオーバーなど余計だと思う。
ある人は世間の人がみな賞讃しているという理由で新進のテノール歌手を賞讃するが、他の人は彼が気に入らないというよりは、むしろ皆が賞讃しているものが必ずしもそれに値するとはかぎらないという考えから、彼を賞讃しない。
ある人は経験に照らしてこれ以外はありえないという理由から既成事実に従うが、しかし他の人はもう千回も同じことが続いたのだから千一回目には新しい事態が生じるはずだと固く信じている。
前者は既定の外的事実を基準にして自らを方向づけるし、後者はつねに自分の意見を持っていて、それが彼と客観的な既成事実との間に割り込んでくるのである。
ところでもっばら客体や客観的な既成事実を基準にして自らを方向づけ、そのためよくなされる重要な決断や行動が主観的な意見ではなく客観的な状況に左右される場合、これを外向的な構えと呼ぶ。これが習慣的になったものを外向的タイプと呼ぶ。
ある人が良い意味でも悪い意味でも客観的状況やその要求に直接応える形で考え・感じ・行動している場合、一言で言えばそのように生きている場合、彼は外向的である。彼はこのように生きているため、 一見して分かるように主観的意見よりも客体の方が意識を決定する因子として大きな役割を演じている。もちろん彼にも主観的な意見はあるのだが、しかしその決定力は外界の客観的状況よりも小さいのである。
こうして彼は絶対的な要因をつねに外界に見出すため、自分自身の内界においてそのような要因と出会えるなどとは予想だにしない。*エピメテウス的なあり方においては内界が外界の要求に屈しており、たしかに葛藤がないわけではないが、しかし最後はつねに客観的条件が勝利を収めるのである。
*「タイプ論」p183ーーこれ(プロメテウスの場合)とまったく反対なのがエピメテウスである。彼は自分が奮闘しているのは世界と関係するためであり、世界に通用するものを求めるためであることを知っている。