異常な状態に順応している個人
C.G.ユング「タイプ論」みすず書房
重要な決定や最終的な決定はつねに外界からもたらされるため、彼の意識は完全に外界へ向いている。しかしそのように決定が外界から来るのは、彼らがそれを外界に期待しているからこそである。
いわばこうした人間の心理に見られる属性は、それが特定の心理機能が優位に立っているためであるとか、個人的な特殊事情によるものでないかぎり、すべてこうした基本的構えから生じたものである。
関心と注意は客観的な出来事に、とりわけ最も身近な周囲の出来事に払われる。人物だけでなく事物も関心を引きつける。そのため行動もまた人物や事物の影響によって左右される。行動は客観的なデータや決定因子と直接結びついており、これらによっていわばすみずみまで説明がつく。行動が客観的状況と結びついているのは一目瞭然である。
行動が周囲の刺激に対して単に反応するだけのものでないかぎり、つねに現実の状況に対応し得る性格をもっており、客観的な出来事の範囲内で十分に満足し、適切に行動することができる。この範囲を超えようなどと本気で企てることはけっしてしないのである。
同じことは関心のあり方についても言える。すなわち客観的な出来事がほとんど無尽蔵に刺激を与えてくるので、普通これ以外のものに関心が払われることは絶対にないのである。
行動を規定する道徳法則は社会の要求と、すなわち一般に通用している道徳理解と一致している。もし一般的に通用している〔道徳〕観念が変化すれば、主体の道徳的な行動基準も変化するであろうが、そのために心理的な態度全体がこれといった変化を受けることはないであろう。
ところでこのように客観的要因によって強く規定されている状態は、 一見したところ生存条件に完全に・あるいはまったく理想的に・適応しているように思われるかもしれないが、けっしてそういうことを意味しているのではない。
もちろん外向的な見方からすれば、このように客観的な既成事実に順応している状態は完全な適応状態に見える、というのはこの見方はそもそも他の判断基準など持っていないからである。
しかしもう一段高い見地から見ると、客観的な既成事実がいかなる状況のもとでも正常であるとはけっして言えない。客観的な条件は時代や場所によっては異常になることもありうるのである。
こうした異常な状況に順応している個人は、たしかに周囲の異常な流儀とうまくやっていくが、しかしそれは同時に普遍妥当な生の法則という見地からすると、周囲の人々全員とともに異常な状態におかれているのである。もちろんその人間はそうなってもうまくやっていけるが、しかし最後には普遍的な生の法則に背いた罪によって周囲の人々とともに破滅してしまうだけである。
この破滅は、その前に彼が客観的な既成事実に確実に順応していた分だけ、確実に訪れる。彼は順応しても適応はしていない。
というのは、適応とは身近な周囲にあるものがその時その時に要求してくるものに対して何の軋轢もなくひたすら歩調を合わせているだけでは不十分だからである。
適応するためには時代や場所に制約された条件よりも一般的な法則に従うことが必要なのである。順応しているだけというのは、正常な外向的タイプが狭く限定された状態である。