外向型の正常と異常
C.G.ユング「タイプ論」みすず書房
外向型にとっての「正常」な状態とは、 一面では、既成の状況に対してたいした軋蝶もなく順応しており、しかも客観的に存在している可能性を成し遂げること以外にはもちろん何の要求もない状態のことである。
すなわち、たとえば現在この場で見込みのありそうな職業につくとか、まさに周囲の人々が今必要としていたり彼に期待していることを実行したり、そうしたものを作り上げるとか、見通しが立たないような・あるいはどうかすると周囲の予想を上回ってしまいそうな・変革は一切やらない、といった具合である。
しかし他面では、外向型の人の「正常さ」は、自分には主観的な欲求や必然性もあるのだという事実をほとんどまったく勘定に入れなくなるという結果をももたらす。
これがつまり彼の弱点である。というのはこのタイプは外の方を向きすぎる傾向をもっているため、主観的な事象の中でも最も明瞭に感知できるもの・すなわち身体の健康・ですら、ともすると少しも客観的でないか少しも「外的」でないとして十分に考慮されず、その結果生理的な健康状態にとって欠くことのできない基本的な欲求がもはや満たされなくなってしまうからである。
こうなるとこころ(*ゼーレ)はおろか身体まで病んでしまう。
*こころ(ゼーレ)は、輪郭を持ったある特定の機能コンプレックスを備えた人格。としています。ゼーレでいえば、日常的な生活の中で、外では天使なのに内では悪魔だ。というように人格が分かれていることを意味していて、どちらが本当の性格でどちらが真の人格なのか答えられないような場合のこころの状態を指しています。➡「ユング心理学とは」心理学をもっと身近に!C・G・ユングで学ぶ心理学入門サイトです より
ところが外向型の人は普通この最終的な状態にほとんど気づかず、その代わりにかえって彼のごく身近にいる家族の方が気づく場合が多い。
彼はと言うと、身体感覚に異常が感じられるときになって初めて、バランスが崩れていることに気づくのである。
このようにはっきり感知できる事実となると、彼も無視するわけにはいかなくなる。彼がこの事実を具体的で「客観的」なものとみなすのは当然である、というのは彼の心にとって、ともかくもこれ以外に具体的・客観的なものは存在しないからである。
また外向的な構えが行き過ぎると主体に対して何の顧慮もしなくなるため、主体が完全にいわゆる客観的な要求の犠牲になってしまうこともありうる。だとえばともかく注文があるのだからとか、ともかく目の前にある可能性は実行してみなければいけないといった理由から、商売をどんどん拡張してゆくことによって主体が犠牲にされてしまうのである。
図:鈴木秀子著「9つの性格」PHP