外向型の無意識は願望するだけ
C.G.ユング「タイプ論」みすず書房
それゆえ客体と完全に同化してしまうと、抑圧された少数者である過ぎ去ったものや原初から存在し続けてきたものの抗議を受けることになる。このようにごく一般的に考察してみただけで、なぜ外向型の無意識の要求が実に原始的・幼児的・利己的な性格を帯びているかが容易に理解される。
フロイトが無意識について、それは「願望することしか」できないと述べているが、これは外向型の無意識に関してならぴったり当てはまる。
客観的事実に順応し同化すると、主観的な心の弱い動きを意識化することが妨げられてしまう。こうした心の諸傾向(思考内容・願望・激情・欲求・感情内容など)が、抑圧の度合いに応じて太古的な性格を帯びる。
すなわち認識されていないものほどより幼児的太古的になるのである。(外向的な)意識的な構えはこれらから比較的使いやすいエネルギーを奪い取り、どうしても取り上げられないエネルギーだけを残してやる。この残存エネルギーはそれでもなおあなどりがたい威力をもっており、これは根源的本能と名づけるしかないものである。
本能というものは個々の人間が恣意的に対処してとことで根絶やしにできるはずがなく、そのためには何世代もかかって徐々に器官が変化しなければならない。というのは本能とは特定の器官の性向をエネルギー的に表すものだからである。
こうしていかなる抑圧された傾向にも、たとえエネルギーを奪われたために無意識化しているとはいえ、本能の強さに見合った相当量のエネルギーが最後まで残っており、力を持ち続けている。
意識の外向的な構えが徹底すればするほど、無意識の構えはますます幼児的太古的になる。こうした無意識の構えは、時として、幼児性をはるかに超えた無軌道とも言える残忍なエゴイズムを特徴とする。
ここにフロイトが描いた、例の近親相姦願望が華々しく登場する。自明のことながらこの願望は完全に無意識的であり、意識の外向的な構えが相当に強くならないかぎり素人の眼には映らない。
しかし意識的な立場が行きすぎると、無意識も症候として姿を現す、すなわち無意識的なエゴイズム・幼児性・太古性・が意識的な構えに多少とも明白に対立する立場をとるため、本来の補償的性格を失ってしまう。
こうなると意識の立場は極端に誇張されるようになり、それによってますます無意識が抑圧されざるを得ないが、しかしその結果は必ず意識的な構えの「間違いの証明」すなわち、崩壊に終わる。