境界喪失の時代
菅靖彦「心はどこに向かうのか」NHK Books
ひと頃、「ボーダーレス」という言葉がマスコミでもてはやされたが、現代社会を一言で表現するなら、まさに「境界喪失の時代」と言っていいだろう。これは戦後経済の目党ましい発展により社会が富裕化し、従来の社会的規範が大幅にゆるめられたことと、情報処理技術を含むテクノロジーの急速な進歩で、社会変化が加速化し、社会そのものがもはや安定した構造を保てず、流動化していることに起因している。と同時に、環境の過度の人工化のために、人間がどんどん生物学的な基盤から引き離され、社会全体が虚構化していることにもその因を求めることができる。
このような規範喪失の状況は当然人々の心にも影響をおよぼし、多くの人があまりにも自由で価値観が多様化してしまった社会の中で、生の方向性を見失い、言ってみれば自己喪失の状態に陥っているのが、現代人の状況ではあるまいか。
現に、精神医学の分野で現在大きな問題になっている、五月病やアパシーシンドロームから登校拒否、家庭内暴力、拒食症や過食症、不眠症、アルコール依存や薬物依存に至る広範な事例を擁するボーダーライン・パーソナリティ・ディスオーダー(境界例)は、規範喪失時代の典型的な症例と言えるだろう。現代人の自己喪失の状態はまた、外部の強い規範に所属したいという欲求を生み出し、危険なカルトを生み出しやすい土壌を作っている。
問題は、規範なき時代において、いかにして自らの主体性を確立できるかにある。これは外部の規範に依存する規範依存型の心性を克服し、規範選択型あるいは規範創造型の心性を自らの内部に育まなければ、実現できないことだろう。このような規範依存型人間から規範選択型人間への変容(ないし移行)のモデルを提供してくれるのが、人格変容のトランスパーソナル・モデルなのである。
本書の狙いはトランスパーソナルの動向を概観した上で、トランスパーソナル的なものの考え方をさまざまな角度から検討し、それが現代社会にもつ意義を浮き彫りにすることにある。「超能力」や「オカルト」、「霊的なもの」に対する関心が高まっている現在、批判精神をしっかりもってそうした領域にアプローチする必要性を説くトランスパーソナルの姿勢は、今後ますます重要なものになってくるものと確信する。
さらにわれわれは生態系の崩壊や暴力の蔓延にシンボライズされる現代の危機が、単なる社会的なアプローチによって解決できるものではないことを認識しておかなければならない。
現代の問題は死を拒絶し、生に執着する現代人の心のあり方に密接に関わっている。したがって、現代の危機を乗り越えていくには、死を受容する態度を養い、これまで魂とか霊と呼ばれてきたものに対する新たなアプローチを育んでいくことが必要である。
その点でも、「霊性」を心理学の枠組みで捉え返そうとするトランスパーソナルの動向は注目に値するものである。