至高体験
A・グッゲンビュール-クレイグ「結婚の深層」創元社
つまり、我々は、救いとはまさしく何であるかを正確に言うことも、あるいは想像することさえもほとんどできないのであって、ただ様々な救済論的道筋を知っているだけである。救いの状態自体は、多分人間の生涯においては宗教的あるいは哲学的至高経験として短い瞬間に直観されるだけであろう。
日没を見ているとき、あるいは俄雨の中に立っているとき、あるいは教会で洗礼を受けるとき、あるいは毎年の祝祭のときなど、ほんの数分間で、人は突然人生の 意味を知っていると信じることがある。そのとき人は彼自身の神性の火花に接するのである。
菅靖彦「心はどこに向かうのか」NHK Books
「至高体験」はある種の意識の高場状態である。今ふうな言い方をするなら、 ハイな状態である。そうした体験は人生を肯定的に捉えるきっかけとなり、人は前向きに生きるようになる、とマズローは考えた。
しかし、それにも程度がある。高揚した意識状態は長つづきしない。長つづきさせる方法はないだろうか。そのような状況の下で、古来から神秘体験と呼ばれてきたものへと関心が広がっていくのはある意味で必然だった。
マズローが生きた1960年代の後半、アメリカではすでに、10年以上も前に渡米した日本人の禅僧が道場を開いたり、中国共産党の侵攻によってチベットを追われたチベット仏教の僧たちが、アメリカに亡命し、仏教的な実践を広めていたりしたこともあって、禅や瞑想が一般の間にかなり広く普及していた。他方でLSDをはじめとするサイケデリック物質が人々の間に広がり、宗教的な世界で語り継がれてきたような神秘的体験をする者が続出していた。
そうした経緯があったからこそ、当時の西洋の心理学者たちも神秘主義的な体験に目を向けざるをえなかったのである。 一旦、東洋の霊的修行に目を転じた西洋の心理学者たちが、そこにあらゆる種類の「至高体験」と、それらの体験を誘発し、維持する体系的な手法を見出し、ショックを受けただろうことは容易に察しがつく。
こうして西洋における人間の可能性の追求は、東洋の神秘思想とその修行体系をも包括する新しい心理学の勢力、トランスパーソナル心理学へと発展していったのである。