ステレオタイプは存在しない
菅靖彦「心はどこに向かうのか」NHK Books
現代のような個人主義の時代には、人間はどうしても狭い自己イメージに拘束されやすい。狭い自己イメージに拘束されるということは、それだけ窮屈な生き方しかできないことを意味する。
たとえば、自分が「マジメな人間」だという自己イメージにとらわれているとしよう。当然、人前で「マジメな人間」を演じることになる。けれども、 マジメなだけの人間などこの世に存在しない。というより、「マジメな人間」にあまりに強く同一化すると、その反動で、フマジメなことをしたいという欲求がふくれあがり、自己分裂が生じるというのが矛盾だらけの動物である人間の特徴なのだ。
自己分裂は自己葛藤を生み、生のエネルギーを消耗させる。現代人の精神的ストレスの大半はそうした葛藤から生じるものなのだ。これは人間がイマジネーションをもったがゆえの悲劇だとも言える。だが、その同じイマジネーションが、心の持ち方によっては、自己イメージを宇宙大にまで拡大してもくれるのである。
そのような選択の幅の広さこそ、人間という種に託された宝であると同時に災いであると言ってもいいだろう。そのことを教えてくれるのが、ウィルバーの意識の構造図だと私は思っている。
図:ケン・ウィルバー著「無境界・自己成長のセラピー論」平河出版社
ウィルバーが「意識のスペクトル論」を練り上げた背景には、自我の健全さを訴える心理学や、心身の統合を目指す心理学、そして自我の超越を進める東洋の神秘主義など、人間の真理について大幅に異なった主張をする学派や思潮が混在し、ひしめき合っている現在の状況があった。
そのような矛盾の中でウィルバーがとったのは、いずれか一つの立場に身を置いて、他を糾弾するという姿勢ではなく、それぞれ固有の問題意識をもったものとして受け入れ、自己イメージの広さに応じて、それらを秩序化するという姿勢だった。このような開かれた姿勢が、従来の心理学の枠組みを大幅に広げる包括的な意識の構造論を生み出すことを可能にしたのである。