「自分を知る」ことの意味
菅靖彦「心はどこに向かうのか」NHK Books
ワークショップに来たある中年の男性のことが今でも印象に残っている。一対一で対面し、互いの目を見つめ合い、なんらかの心の交流が起こったと感じるまでそれをつづけるという、われわれが「アイコンタクト」と呼んでいるワークをしていた時のことだった。
その男性は落ち着かなげで、なかなか視線が定まらず、ペアになった若い女性とえんえんと対面していなければならなかった。ワークショップが終わって、みんなで体験を語り合う段になった時、彼は言った。「今日、私は非常に重大なことを発見しました。これまでの人生、自分がずっと何事にも目を逸らすような生き方をしてきたということに気づいたんです」。やや興奮気味のその口調が、彼にとってその気づきが相当大きなものであることを示していた。
それは頭の中で考えた気づきではなく、実際に女性と対面し、心の中で気づいたことである。その体験はある種の感情的な色彩をともなって、彼の心になんらかの刻印を残したにちがいない。その後、彼とは会っていないので、今、どうしているかは分からないが、少なくとも、彼の人生は一部でより意識的になったはずである。「自分を知る」とは、単に頭の中で自己分析をするだけではなく、彼のように丸ごとで気づき、その後、自分のあり方が変わるということが含まれていなければならない。
つまり、「自分を知ること」は単に知的な作業ではなく、「生きること」と分かちがたく結びついているということである。「知ること」と「生きること」は本来、根底でつながっており、互いに影響し合っているのだ。つながっているからこそ、人は「自分自身で考える」ということが可能になるのである。というのも、自分の考えの妥当性を証明してくれるのは、他者の同意でも権威の承認でもなく、基本的に自分自身の中での感情的な納得だからである。
ところが、現代の教育は、「知ること」と「生きること」の分裂に基づく、知性偏重の教育である。そのため、ほとんどの現代人は与えられた知識を丸暗記することはできても、「自分自身で考える」ということができない。
そのため、知性と感情、自我と身体の分裂がますます推し進められ、疎外感として自分にはね返ってくる。そのことが「自分を知りたい」という「自己探究」の欲求を生み出す因になっているのだ。
呼吸法のセラピーで存分に呼吸した後に、ある男性は言った。「会場についた時にはみんなの視線が気になってしかたなかったんですが、今はまったく気になりません。こんな心の状態もあるんですね」。それは、頭の中でいくら考えても、また難しい哲学書を読んでも、決して得られない自分についての感情的な知識である。