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排除からの出発

講座・差別の社会学2「日本社会の差別構造」弘文堂:共生へのユートピアとその挫折(学校改革運動の「近代」と「反近代」佐藤学より

 

下中の共生ユートピアは、学校から排除された体験を基礎にしている。寺子屋と立杭焼と農業で生計を立てる農家に生まれた下中は、二歳で父が死去、八歳で祖父も死亡し家と田畑を失う。小学校を三年で修了すると、登り窯の共同使用権を頼りに陶工の仕事に就く。

 

19歳で高等工業学校窯業科への進学を目指すが、学歴が不十分で進学の希望を絶たれ、まず教員検定試験を受験し小学教師を4年間勤めたのち上京。「児童新聞」「婦女新聞」の編集、日本女子美術学校の経営、埼玉師範学校を経て、36歳で平凡社を創設

 

10歳で学校を終了して以降、下中の社会への参入はすべて、検定試験と出版と人脈という学校外の評価システムを通してであった学校を放逐された少年期の体験は、下中の生涯の行動を決定したと言ってよい

 

下中の生まれた丹波今田村は、明治維新の二年後に大規模な一揆が発生した寒村であった。その風土と伝統が維新の精神を刻印し、反近代と反権力の情念を培ったと考えられる。青年期の彼は、六種の漢籍(漢文で書かれた本)に没頭し、西郷隆盛の維新の精神と塙保己一(江戸時代の国学者)の言行録に傾倒している。

 

文部省の統計によれば、下中が学校を去った1888年の就学率は47%(男子63%、女子30%)、上京し出版メディアに就職した1902年は92%(男子96%、女子87%)である。学校教育は日清、日露戦争の間に急速に普及、国民教育の体制を完備した。その後、国民教育を主体化する国民運動が展開され、その一つが教育ジャーナリズムであり、大正自由教育の運動だった。

 

下中が関与したジャーナリズムは、学術的色彩を売りにした教育雑誌とは異質なもので、編集した「児童新聞(1902年)」は児童向けの新聞であり、「婦女新聞」もまた数少ない女性向けの雑誌だった。また、1909年から1912年までに下中は六冊の、通俗道徳を教える漢籍を出版している。下中の本や新聞は、学校の対抗文化であり代替物だったのだ

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内村鑑三の言葉
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