所有と不滅への渇望
エーリッヒ・フロム「生きるということ」紀伊国屋書店 より
持つ要求にはさらに別の根拠がある。生物学的に与えられた生きる欲求である。私たちが幸福であれ不幸であれ、肉体は不滅を求めて努力するように私たちを促す。
しかし私たちは、経験によって自分が死ぬ身であることを知っているので、その経験的証拠にもかかわらず、不滅であると自分に信じ込ませるような解決策を求める。
この願望は多くの形態を執ってきた。ピラミッドに葬られた自分の肉体が不滅になるというファラオたちの信念、初期の狩猟社会の幸福の猟園に見られる、死後の生活に関する多くの宗教的空想、キリスト教とイスラム教の天国。
十八世紀以後の現代社会においては、<歴史>と<未来>とがキリスト教の天国の代わりとなった。名声、高名、そして悪名、歴史の記録における脚注を保証してくれそうなものなら何でも、一片の不滅を生み出す。
名声への渇望はただの世俗的な虚栄心ではない。それはもはや伝統的な来世の存在を信じない人々にとっては、宗教的な特質を持っている。(これはとくに政治的指導者の中に顕著である。)人に知られることが不滅への道を舗装し、宣伝業者が新しい聖職者になる。
しかしおそらくは他の何物にもまして、財産の所有が不滅への渇望の実現を生み出すのであって、持つ方向づけがこれほど強力なのはそのためである。もし私の自己が私の持つものによって構成されているとすれば、持っているものが不朽であれば、私も不滅ということになる。
古代エジプトから今日に至るまで、肉体のミイラ化による肉体的不滅から遺言による精神的不滅まで、人々は、彼らの肉体的・精神的生涯を超えて生き続けてきた。遺言の法律的な力によって、私たちの財産の処分は将来の何世代にもわたって決定される。遺産相続の法律によって、私は、資産の所有者であるかぎり不滅となる。